「芸術とただの物体あるいは行為を峻別するものは何か」。芸術を単一の原理に還元していく言説は、確かに近代において芸術についての新たなる形式を生み出す原動力として機能し得た。多様な文化の流入(それはときに――しばしば――簒奪に依った)と流通という状況に対して、それらに共通する(=ユニバーサルな)原理を取り出そうとするときには、そのような問い立てが有効に機能するだろう。しかし芸術を極端に原理に還元する原理主義的な態度は文化の選択肢を狭め、原理を(後から見出すのではなく)先取しようとすれば、そこにはいずれ形骸化した形式が残るのみとなっていく[1]。そのような事態を我々は警戒しなければならないが、それでも仮初に原理を思考しようとすることはできる。芸術とただの物体や行為をいかに峻別するか。ここでは「芸術とは理念を現前させる物体あるいは行為である」としてみよう[2]。
震災後の2011年に東京藝術大学で行われたサウンドパフォーマンス《東京藝術発電所》[3]では、原発事故を受け、太陽光や風力、そしてパフォーマーが自転車に取り付けられた発電機を「漕ぐ」ことによって、パフォーマンスのための電力を発電していた。これらの電力は、楽器や、スピーカー、パフォーマンスのための蛍光灯などに給電された。人力や、ごく小規模な太陽光発電によって生み出される電力は当然、原子力発電どころか、火力、水力発電のプラントによって生み出される莫大な電力の足元に及ぶものですら無い。しかしこのパフォーマンスが示してみせたのは、「現実的に原子力発電に代替可能な発電方法の提示」という、ストレートに社会問題を解決する方法ではなく、「我々が前提にしていた電力は、我々自身が作り出すこともできるものなのだ」という態度を、行為として示してみせることであっただろう[4]。近代社会に生きていれば、自身が無前提に拠り所としてしまうインフラストラクチャーについての再考を促し、そして自立の「ための」理念を示したという意味で、この作品は芸術的なパフォーマンスであった。
場所を同じく東京藝術大学で開催された「東京インディペンデント2019」[5]は、無審査での出展を許すという、アンデパンダン形式を採用した展覧会だ。発起人たちが言及するように、かつて東京で行われ、赤瀬川原平によって記録されもした読売アンデパンダンを再び召喚するようなものであったかといえば、展覧会場の雰囲気は至って穏当なものであった[6]。しかしながら、この展覧会において注目すべきは、まずは「すべての作品を展示する用意がある」「可能な限りの作品を出展する」(不可能そうな場合にも対話を行って解決策を導き出す準備がある)という点。そして実際に出展者が600名を超え、1,000点を超す作品全てを展示するために、展覧会期の開始を後ろに延ばして開催に踏み切ったという点であろう。すなわちここで実現されようとしている理念とは、「安全に配慮しながら(それは展覧会という形式の、崩し得ない前提だ)、全ての作品を展示し切る」ということにほかならない。つまり、「会期をとるか、全作品の出展をとるか」という選択が生じた場面において(いや、普通は生じないのだけれど)、無審査全出展形式という理念が参照され、それに基づいた判断がなされたことが対外的にアナウンスされたのだ。展覧会は空間と時間が区切られた場であるがしかし、(芸術的)意見が表明される場である。主催者のこの判断と、その理念が表明された瞬間こそが、理念が現前した瞬間にほかならない[7]。
ところでここで注意を払うべきなのは、「理念を体現する」ことと、「理念をイラストレーションしているだけ」というのは、おそらく異なるということだ。一足飛びに理念による承認にありつこうにも、それを「作品の水準で体現する」ためには、それがただの思想や理念のイラストレーションに終わってはならないのである。批評があり得るとしたら、この水準の成功/失敗を問うことになる。たとえばマルセル・デュシャンの変名による便器の出展は、作品それそのものこそが理念を体現するという以上に、「アンデパンダン展に出展拒否されたという事実を論争として展開してみせたこと」にこそ注目すべきなのであって、「便器を置くこと」を再演してみせたところで、直ちにその理念を再び体現させることにはならないということだ。敷衍すれば、たとえばコンセプチュアル・アートの代表例としてしばしば参照されるジョセフ・コスースの《1つそして3つの椅子》を実際に展示会場で目撃したところで――あるいはより分かりやすく、自分自身で同じことをしてみるならば、直ちに(それが“概念的”には同一の手つきであるにもかかわらず)明らかになってしまうことだが――その作品の訴えかけるべきものが「腑に落ちる」わけではないということも分かるだろう。筆触の力動性や豊かな色彩を持たないコンセプチュアルアートやミニマルアートといった様式を真に鑑賞体験として成立させようとする際に、資本主義の巨大な力が生み出した工場の巨大な空間をギャラリーとして転用したディア・ビーコンのような、崇高さをもたらす巨大な神殿空間を必要とするということに、我々は注意を払わなければならない[8]。
篠田千明による「ZOO」(2018)[9]は、マヌエラ・インファンテによる「動物園」[10]を原作とした演劇だが、黒嵜想[11]によれば「実際の内実としては、両作はほぼ別物」だという。確かに「文化人類学者によるレクチャー」の形式を採用したインファンテ版と比べれば、「(人間)動物園」というギミックと、中核となる終盤の展開に共通する精神が見受けられる程度だ。篠田版「ZOO」は、公演中、鑑賞者が自由に動き回ることができ、会場内にいくつかあるスポットごとに着目しながら展開していく作品だ。演者は複数人いるが、中でも目立つのは、柵に囲まれ、ヘッドマウントディスプレイごしのVR空間を体験している「動物として展示された」演者だ。観客は時折、この演者をスマートフォンで撮影したり「給餌体験」をするというインタラクションが挿入される。
演劇とは、「役者が演技をしていること」を鑑賞者が了解しながら(共犯関係的に)鑑賞する構造をもっている。たとえば、20代であっても「老人の役」として登場すればそのように了解されるし、30代が幼い子供の役で出演することもあるだろう。舞台の上にある死体は、「死人の演技をした役者」でしかないのだが、それは劇中では、間違いなく死体なのだ。その演劇的了解とは、いつでも解除可能な全く恣意的な了解というよりは、「感情が揺さぶられる」程度には、身体的に深い了解であり、それが行えることは、動物としての人間の特異性ですらある。それは敷衍すれば「ヘッドマウントディスプレイを通じたヴァーチャル・リアリティ」[12]という構造とも響き合うものだろう。黒嵜想によれば[13]、篠田版「ZOO」は、原作にあった見る/見られるという(演劇的)二項対立構造を外す仕掛けとなっていると指摘される。舞台と観客席の二項対立や、演者の空間に観客が関与できないという、通常の演劇にあるはずの対立は脱臼させられているということだ。
劇の終盤、ヘッドマウントディスプレイが外され、「仮構された空間」から抜け出した演者は、「これは言葉ではなく、ただの音である」といった台詞を口走る。「(人間)動物園」は、劇中の演出によって「演劇的了解」そのものを崩さんとするのだが、筆者が鑑賞した公演では、この瞬間が非常に成功していた。しかしながらそれは、決して演出側の意図したものではなかった。それは、この回に母親に連れられていた、まだ鑑賞者とも言えないほんの幼子が、泣き声を――まさに「言葉を獲得する以前の声」を――この台詞の瞬間にあげていたのだ。ただの音を言葉として解する/ただの芝居を劇中の真実として了解することが、「人間」の条件だとするならば、言語が言語である以前の――「人間以前の声」が聞こえていたのである。この生身の声が――声色から、どんな役でもなく、幼子であることが伝わってしまう――まさにそれをテーマにした台詞の瞬間に訪れたことは、演劇的奇跡への遭遇であり、同時にこの作品が用意した、演劇的了解や比喩や仮想現実といった優れた道具立て――約束事をすべて吹き飛ばしてご破産にしてしまう、強力すぎる――作品の理念を体現してしまった――声の現前性であった[14]。