伊藤啓太や松下哲也による新設のアートスペース「関内文庫」にて「藍嘉比沙耶|杉本憲相 メディウムとしてのアニメ」展が開催された。関内文庫はアーカイブを主とする活動を行っていく アートスペースであり、会期は3日間と短いものであったが、現在も展示作品や360°画像をウェブサイトから閲覧することができる[1]。
サイトを見ても分かる通り、関内文庫はかなり小規模なアートスペースであり、藍嘉比、杉本両名の作品も、小品や過去作を中心にしたものであった。関内文庫では、後ほど展示に関する論文 を発表予定であるとのことだが、現在はまだ展示ステートメントが示されているのみである。関内文庫としては、「時間芸術であるアニメ」と「空間芸術である絵画、彫刻」の差異を乗り越えようとする 両名のアプローチを、ポップアートではなく正統(アカデミック)な芸術の問題とする。しかし、アニメ―ションと静止画の表現に齟齬があることは確かとして、その両者の間には「動的静止画」 としてのマンガという実践が既に(映画に触発されたメディアとして、そしてアニメに先行する技術開発さえあるジャンルとして)存在している。そこを一足飛びにアニメと絵画を連結する モチベーションこそが問題にされなければならないだろう。
関内文庫のつぶやきではもともと、藍嘉比×あいそ桃か(相磯桃花)の二人展であったことから、代打的登用としての杉本憲相なのかもしれないのだが、奇しくも以前の中央本線画廊での 杉本憲相展に際しての拙文、「杉本憲相とキャラアートについて」で言及した内容がほぼ当てはまる内容となった。 短い内容なので、繰り返して確認しておきたい[2]。
まず、杉本作品においての画題が『らき☆すた』であることには大いに問題があるように感じられる。漫画原作から京都アニメーションによりアニメ化された『らき☆すた』は、 『あずまんが大王』が流行の発端となった「日常系」作品のフォーマットに「キャラ自身がオタクである」設定によって「オタクの様相」のみならず既存の作品への言及や楽曲の引用を行い、 作品中に再び他作品やその消費の態度を繰り込むという再帰的構造をもっている。このような構造(アニメにおける再帰的構造)はまさに東浩紀の「文芸批評としての美少女ゲーム批評」から連なる 「ゼロ年代批評」の主題となる構造であり、黒瀬陽平が論文「キャラクターが・見ている」で『思想地図』にてデビューした際に扱ったアニメ作品であることや、 村上隆の主催するGEISAI13でのカオス*ラウンジの「造形ワークショップ的多人数制作」(一輪社、だつお(青柳菜摘)、しーく、地獄底辺(きくお))などが当時参加していたと記憶している) の作品《つかさを作ろう》にて主題として扱われたことにも、当時のメルクマール的作品として、「キャラが共通認識されている」ことに必然性があった。しかしながら杉本は2017年にキャラを扱う 作法として、目が変形され引き伸ばされたキャラを描く。たとえば梅沢和木が既に2010年には行っていた「キャラの目を延長する」という仕事を7年越しにペインティングにするという絶妙な古臭さは、 梅沢において機能していた批評的な仕事を追従するだけのものとなってしまっている。[3]
狭い範囲での話題ではあるが、この10年で美大の(特に絵画科において)「キャラ絵」を描くことに対する否認や抑圧は圧倒的に軽くなったと言っていいだろう (デザイン科においては抑圧はやや少なかったが、それでもストレートに表現されることは稀であり、飽くまでも情報メディアの装いとしてキャラ的なものが露出したするという形が多かった)。 以前には「マンガ絵」であるだけで忌避あるいは黙殺されるものであり、だからこそ村上が扱うことには戦略的な意義があったのだ。しかしながら、抑圧が減ったことが直ちにキャラ絵が適切に評価される ことにはならない。ポップカルチャー内での技術的、センス的な進歩や、「絵柄(デフォルメ他の様式)」の開発については、やはり一定の専門性が要求され、ファインアートの実質的牙城となっている 美術大学においては、そのような専門家が場所を得ることは稀だ。キャラ絵への適切であれば、それが批評的な仕事か否かというジャッジが可能なはずなのだが、 それは実際にはほとんど機能していないだろう。故にキャラをアートで扱おうとするものは供給され続けるが、それが批評的な進歩をしているのかといえば、疑問符をつけざるを得ないのだ。
画学生がキャラ絵を描きたがること自体には、別に不思議はない。絵を描き始める人間の少なくない数が、最初に自覚的に描き始めた絵はキャラ絵(あるいはキャラ絵未満だが、おめめキラキラの線画) なのだから、キャラ絵という様式そのものに、絵画の原初的な契機が内在しているというのは正しい。しかしながら、歴史的な固有ジャンル(であり、権威あるジャンル)としてのファインアートとして 「キャラを扱う」のならば、だらしなく輸入することでは、その権威の栄誉には与れない。そこでは、何をもって芸術の問題とするのかという手続きが必要になるのだ。
たとえば、前述した村上の、「奇形的ポルノグラフィー」はまさにポピュラーカルチャーのキッチュさを全面に押し出すという、ポップアートの方法論そのものであろう。 会田誠がマンガという形式を用いるのも、その猥雑さを全面的に利用せんとする時である。
村上こそが「オタクとアートを連結する」ということを自覚的戦略として宣言し、それによってファインアートのリングに上がることが許された記念碑的作家ではある。ポストコロニアリズムの文脈では、 抑圧者であり、被抑圧者でもあるという半端な「敗戦国」である日本の表象として、一方にオリエンタリズム、一方に過剰なポストモダンを見出そうとする視線の新たなる表象としてオタク表象を取り上げ、 ポストコロニアル作家でありながらポップアート作家でもあるという独特の位置づけの補強として、日本のサブカルチャーの「文脈を輸出する」ということまでやってみせたのだ。 (しかしながら、その活動は、日本においては、「サブカルチャーがハイアートに認められた」という解釈に堕していたかもしれない) したがってその後の風景は、「キャラっぽい絵画」がだらしなくアートフェアに拡散していくというものであった。
「オタクがアートなのか」という問いは、当のオタクたちにとっては実存的に重要な問題であり(自分の趣味性を捨てて、作品は作品として「格好つけて」作るべきなのか?という会田誠的問題でもあり) 続けたわけだが、それは「アート」をどのようなものと捉えるかによって、答えが変質する問いでもある。筆者はその答えを「芸術とは批評性である」と考え、 「キャラ」についての批評性を宿したものが芸術であり、そうでないものは、単なる「キャラを描いた絵画」でしかないと結論づけた[4]。 2009年に企画された「解体されるキャラ」展は、JNTHEDと梅沢の二人展である。JNTは「デフォルメ」というキャラの造形原理を人体に適用することによって、キャラの臨界をあぶり出し、 梅沢はパーツ単位にキャラの画像を分解する――しかしそこに固有名が残り続ける――ことによって、キャラの最小単位について問う作品を制作していた。この展覧会で用いたキーワードは奇しくも 「キャラのメディウム」という言葉であり、キャラとしての限界を顕わにする仕事であると考えていた。
さてこの10年で、キャラにまつわる批評性を宿した仕事がこの二人の仕事以上にあっただろうか。少なくとも、キャラを変形した程度ではこの二人に追いつくことは叶わないだろう。
さて、藍嘉比が90年代や00年代初頭の作品(『新世紀エヴァンゲリオン』や『Mezzo』)に注目するのは、「絵柄」というモードは、一周まわってはじめてサンプリング可能な対象になるからだろう。 人間にとって「ちょっと古いものが一番ダサい」。これは、人間が文化を生きる上での生理的な制限速度のようなものだろう。時間によって適度に文脈が脱落してこそ、 絵柄や「セル画」の質感が意味操作の具として扱えるようになるのだ。藍嘉比の作品は、(背景美術的な)水彩の滲む色彩と、マットな(セル画的)質感の対比が効いている小品が最も成功しており、 複数の顔が重なるペインティングは、質感へのきめ細かさという点ではやや劣るだろう。そもそもキャラ絵を凹凸のあるキャンバスに、筆触が出やすい油絵の具で描こうとするなど、全く向いていない。 マンガにおいては、抑揚あるペンタッチから生み出される理想的なボリュームこそが重要なのであり、アニメにおいてはセルのシートを裏から塗ったように、一切の筆跡を拒否するフラットな色面が重要なのだ。 後にアニメの制作現場がデジタル化することで、アニメのキャラは本当に抑揚のないフラットな平面となったのだが、藍嘉比がサンプリングする時代は、セル時代の円熟期から、それを受け継ぎつつ、 未だデジタル化に慣れない時代までであるのは興味深い。デジタル化して以降のアニメ絵の進化の方向性は、「撮影処理」と呼ばれる事後的なエフェクトにおいて「空気感」を 表現する方向性へと向かうことになる一方で、絵柄のクセはどんどん脱臭されるようになるのだが、藍嘉比がサンプリングする時代はむしろ、絵柄のクセがかなり残っている時代だ。 藍嘉比には、複数の線画を重ねるシリーズがあるが、線画のサンプリング元となっている『新世紀エヴァンゲリオン』の劇中内において既に使われている手法であって、藍嘉比がはじめて 線画を重ねるという手法を使って、キャラ絵を批評的に扱ったということではない。むしろアニメのメディウムスペシフィシティという点では、エヴァンゲリオンのTV版最終2話や旧劇場版こそが まさにアニメにおける記念碑的達成となった作品であり、未だに立ち戻るべき古典としてある所以でもあろう。そう、村上のスーパーフラット/リトルボーイのコンセプトに、 『新世紀エヴァンゲリオン』が引用されるように、そもそも庵野秀明のエヴァンゲリオンは十二分に批評的な仕事であり(からこそ、初期の東浩紀が熱中して論じようとしたのであって)、 それを希釈するだけで新たな批評性とするには遅すぎるのだ。
追記 藍嘉比作品はデジタル着彩の作品は参照していないとのことで、これは筆者の事実誤認であった(『MEZZO-メゾ-』はデジタルだが、『MEZZO FORTE』はセル)訂正してお詫びします。(2019.6)