絵画の拡張 ブラウジング・ハイの時間
JNTHED(ジェイエヌティーヘッド)のウェブサイト[1]「RakGadjet(ラクガジェット)」[2]は簡素なHTMLながら、「作品画像が時系列で並ぶ」という通常のイラストサイトの構造ではなく、「イラストページそのものたちがランダムに相互リンクを持つ」構造を備えることで、「次々に作品画像にハイパーリンクしていく」という鑑賞構造を作り出していた。そのため、作品そのものは「一枚絵としての完成度」[3]を高めるような、描き込みを増やしていくという方向性よりも、「落書き的な線の快楽」、「単純化された色面の強さ」「書き文字(オノマトペ)による時間駆動」「ポーズの連鎖によるコマ間の動性」が重視され、これにより「ブラウジング・ハイ」とでも呼ぶような鑑賞体験を生み出していた[4]。JNTHEDは、マンガや絵コンテから動きを読み解く感覚から、「動画を切り出したものとしての作品」として自身の作品を位置づけている[5]。00年代から10年代にかけてのウェブイラストの総体を見るに、「デジタルならではの高彩度を生かしつつ、日常的な生活感覚と近接した情景を織り交ぜる」方向性が大きく発展したといえそうだが[6]、その結果から見ても、JNTHEDの作品制作の方向性は明らかに独特のものであった。
JNTHED 《後輩スティンガー》2004 http://rakgadjet.fullmecha.comより
《後輩スティンガー》における時間操作は、明らかに少女マンガにおける心情描写や動画(映画/アニメ)におけるスローモーションといった技術開発を背景としている。マンガ研究において語られるように[7]”、マンガにおける時間感覚の操作は、「目(顔)」や「文字」が持つ、強力な視線誘引作用を線的に繋げていくことによる「視線誘導」によって継起することが指摘されている。一方で、少女マンガにおいて心情を表現するシーンにおいては、このコマの連続性は用いられず、むしろ読みの順序が確定しないことで視線のさまよいを発生させ「無時間」的なシーンとして読者は受け取ることになるとされる。また、VFXやCG技術の発達によって、映画における銃撃戦のスローモーションは、格段に精密に描かれるようになった。映画『マトリックス』において銃弾を「避ける」シークエンスで[8]多数のカメラを用いたスローモーションの表現が後に「バレットタイム」と呼びならわされたように、現実の世界においては一瞬で終わってしまう、「銃の発射から着弾まで」といったシークエンスをスローモーションで表現するのは、アドレナリンが過剰に分泌されることで時間あたりの認知能力が向上し、周囲の動きが通常時と比較して遅く感じられる状況をデフォルメして映像として表現したものだと言える。JNTHEDの《後輩スティンガー》の2コマ目は明らかに少女マンガ的な「情緒的無時間性」とバレットタイム的な「アドレナリン的無時間性」が掛け合わされたものだ。これは1コマ目のスティンガーを連射する描写で過剰に圧縮された言葉「センパイセンパイセンパーイッ!!」との対比で非常に言葉少なになっていたり(セン…パイ…)、発射口からの煙が糸を引く様子が描写されていること、そして涙が宙に浮く無重力的な描写からも、時間がスローモーションで流れている様が明らかであろう[9]。オノマトペも1コマ目は「オドッ オドッ」「オシュッ オシュッ」[10]と、発射から加速までのシークエンスを表現しているのに対し、「スカン」と弾頭が発射口から飛び出た音だけが響いている。
JNTHED 《何の変哲もない螺旋力》2007 http://pixiv.net/member_illust.php?mode=big&illust_id=230498より
《何の変哲もない螺旋力》はアニメ『天元突破グレンラガン』(2007 制作:GAINAX 監督:今石洋之)の特殊効果(スペシャルエフェクト)から着想を得たもので、下方向へブラウジングしていく運動性によって力動性を感じさせるという、ウェブブラウザを鑑賞の前提とした構造の作品である[11]。スペシャルエフェクトからの着想といえば、村上隆がアニメーターである金田伊功のスペシャルエフェクトに着想を得て「スプラッシュ・ペインティング」と称したシリーズを展開したが、異化効果として「凍った画面」を作り出すフラットな色面を用いる村上のシリーズに比べ、JNTHEDの《螺旋力》は遥かに力動性を感じさせる[12]。村上が先行していた、抽象絵画とスペシャルエフェクトの折衷というだけでなく、縦長の構図を採用しているが故に、掛け軸における山水画の滝や、植物の幹や枝によって方向性を演出する技法との共通項や対比をより見い出しやすいという点で、東洋絵画とも接続されている[13]。なおかつブラウジングを前提にした極端に長い構図は、明らかにブラウザというインターフェイスの性質をあからさまにする仕事であり[14]、「文脈が複雑にハイブリッドしている」という点で、以前村上が提唱していたような「非常にハイコンテクスト[15]な」作品と言える。くわえて、JNTHEDは、この作品を10分割し、疑似スクロール的にフレームとしてGIFアニメーションにしたバージョンも制作しており、「動画と静止画の中間」を捉えようとする作家の関心は明らかだ。緑色に発光する稲妻が、飛び散り、うねりながら、画面の左右を行き来しつつ、画面下への力動性によって最後に静寂な線状の光に収束していく様は、たとえば雪舟《山水長巻》や横山大観《生々流転》のような、水が流れ大海へとそそぐ巻物の形式[16]と響き合う抑揚をもっていると指摘できるだろう。
ウェブイラストは、その形式――画像であることや、モニタやマウスといったインターフェイスを用いたブラウジングによって鑑賞される――に、明らかに展示芸術である絵画との差異が存在している。「ポストインターネットっぽい」質感は、デジタルメディアのデフォルトの質感が、現実空間での制作時に自然と生まれる質感と異るという事実を異化作用として用いて展示芸術にインストールするものだと言えそうだが、そのような「あえてのプレゼンテーション」以前に、HTMLというニューメディア[17]に最適化する中で発展してきた技術的成果そのものがもつ質感にもう一度注目してみせることは、有用な仕事であるはずだ。
[1] 「イラストサイト」という文化がほぼ滅亡して久しい。インターネットそのものは、はじめは大学という研究機関の知を繋げていくものとして出発したものであったが、商用利用が開放され、次第に「個人」の「私的」なものを接続していくインフラとして拡大していった。2000年前後は、日本において、個人のウェブサイトが広く普及していく時期であり、イラストサイトも盛んに制作されていた。しかし、ブログの登場(2003)や、イラストSNSであるpixivの登場(2007)を決定的な契機としてその存在感を低下させていった。
典型的な個人サイトは、インデックスページにカウンターを設け、コンテンツとしてプロフィールや日記、掲示板、リンクなどを備えたものであり、イラストサイトはメインコンテンツとしてイラストページを設けるというものだった。
[3] gnck「創造の欲望を巡って――キャラ・画像・インターネット――」中 JNTHEDインタビューより。
[4] たとえば、ランダムに次々と画像が登場し、クリックというリアクションを連鎖させるという「刺激―反応」のセットは、後のtumblrやtwitterなどのストリーミング的なブラウジングの快楽ともつながる行動である。あるいはそれらのSNSを「パチンコ的」と揶揄する声が存在するように、ウェブに限らずとも、普遍的に存在する行動だろう。tumblrに耽溺するとき、「画像が次々と表示され、そこに含まれる記号性にリアクションする」という状態になるが、これはまるで人間であるはずの自分がある種の「フィルタ」と化す(=botと化す)体験でもあろう。
梅沢和木が「音楽ゲーム」や「シューティングゲーム」にしばしば言及しつつ、「ふたば☆ちゃんねる」や「tumblr」からのイメージソースを利用していたということも、この「画像が次々と表示され、そこに含まれる記号性にリアクションする」というbot的な身体状態を、彼が作品制作の際に運用していたということにほかならない。
[6] この感性の方向性はアニメにおける新海誠的なものと呼ぶとわかりやすいだろうか。このデジタルならではの高彩度や透明感といった要素自体は、ファッションにおいてインスタグラム的な感性を経由したビニール素材の流行などにも現れているだろう。
[7] スコット・マクラウド『マンガ学 マンガによるマンガのためのマンガ理論』、泉伸行『まんがをめくる冒険』ほか
[8] もちろん、銃弾が発射されてからその軌道を避けることは通常の人間にはできないので、その「回避」はフィクショナルな高速運動の表現でもある。一方で銃弾を避ける身体を観賞しながらそこに共感することができるのは、人間の危機回避の身体性に訴えかけるからでもある。フィクションを観者や読者が受け取ることができるのは、物理法則的な正しさではなく、人間の認知の側に寄り添うことによっている。
[9] 「視線のさまよい」を発生させることで長時間の鑑賞を可能にすることは、絵画を作品として成立させる方法論として重要な要素に思われる。しかし、「文字と目」といった強力な「視線誘導」が成立してしまうと、「鑑賞時間」そのものは短く、思索を生み出すまでは至らなくなってしまう。展示芸術において「鑑賞しつつ思索させる」という作法は基本的なものなので、鑑賞時間の短縮は作品にとっては弱点ともなり得る要素だが、RakGadjetはブラウジングに「ランダムにページリンクを探索していく」という要素をもたせることによってむしろ一枚ごとの鑑賞時間は短く、ウェブサイト全体の鑑賞体験として構築しようとした点も、同時代のイラストレーター達の戦略とは全く異なるものとして記述されるべきものだろう。
[10] JNTHEDは《後輩スティンガー》のオノマトペの「オドッ オドッ」「オシュッ オシュッ」という音については、「逆再生の音」だとしているが、そのようなひねりを加えるモチベーションは、連続してブラウンジングしながら鑑賞する中での「耳残り」や「リズム感」を意識してのことだろう。
[11] 2019年現在であれば、韓国において発展した形式であるウェブトゥーン(縦読みマンガ)との比較を行うことでも、発見できることがあるだろう。泉伸行『漫画をめくる冒険』ではまさにマンガを「めくる」という物理的な行為や読みの方向性による力動性によって、有利/不利や運動量/抵抗感の大小がコントロールされているということを実例を用いて示しているが、ウェブトゥーンではその運動性が縦の方向性をもつことになる。PCを用いたブラウジングでは、「リンクボタンによるジャンプ」というインタラクションが加わってくるということになる。
[12] この時点で村上が先行している領域への関心があったという意味で、後に2011年よりJNTHEDがカイカイキキに参加する布石ともとれる。しかし、村上がカオス*ラウンジとの決裂後に企画した「悪夢のどりかむ」展(2012、Mr.、NaBaBA、おぐち、STAGとともにJNTHEDが参加)や、その後の作家の展開としても、(村上の後継や影響関係として)スペシャルエフェクトのシリーズが展開されることはなく、カイカイキキは風景画や、アニメーション『6HP』や映画『めめめのくらげ』の背景およびメカニックデザインを担当させていた。
[13] ただし、作家の狙いとして、東洋絵画を引用しようというものではないだろう。そこに存在するのは「形式の響き合い」や「相通じる力動性」である。村上は自覚的に東洋絵画を参照しシリーズを展開するが、ポップアート的な手業として、凍りついたようなフラットネスを画面に付与しており、むしろ力動性を「殺す」異化作用によって作品を成立させている。
[15] ちなみにハイコンテクスト文化/ローコンテクスト文化という区分は、もともとはエドワード.T.ホールが「より文脈の共有性が高く言葉で説明する必要が無い文化」のことをハイコンテクスト文化と呼んでおり、村上が言う「欧米現代アートのルールでは、全てを言語化し説明しなければならない」という文化はむしろローコンテクスト文化のことである。それを受けて宮台真司は「ハイコンテクストな作品」を「高度に文脈依存な」と言い換えていた。
[16] これらの日本絵画は中国絵画の山水を画題とした図巻形式を踏襲したものであるので、「日本固有」という指摘にナショナリスティックな響きを混ぜたい願望からすれば用心を要するものだといえるだろう。
[17] ところで、その最初期からしばしば難点が指摘されている行政的な芸術区分として「メディア芸術」が存在している。これは、(概念としては映画を含みつつ)文化庁が推進するメディア芸術祭では「マンガ」「アニメ」「エンターテイメント(ゲームを含む)」「メディアアート」の4部門で構成される全てを包括する概念であるが、複製芸術と非複製芸術が混在しており、その状況が今でも継続している。これらは制作の体制、保存や振興の方法、更には権威づけの必要性までもが異っており、同列に運用し難いという点では確かに再度整理を必要とする区分だろう。さて、JNTHEDのRakGadjetは、明らかにそられ全ての要素を含みこんでいる。にもかかわらず、実はこれらの4ジャンルの中でどこに収めればよいのか、どこにあってもメディア芸術祭の審査員の目には収まりが悪く映るだろう。その収まりの悪さも含め、こう言ってよければ、JNTHEDの仕事は、ただしく、日本にしか行政上存在していない概念である「メディア芸術」なのだ。