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制作の問題系を引き受けるために

※本稿は、「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」の出展作品についてのテキストであるが、「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」が掲げた「不寛容」「分断」という、キュレーションのレベルでの検討や、「表現の自由と検閲」「表現の自由と弾圧」「表現の自由と脅迫」といった問題系、あるいは、「炎上と社会の分断」についての検討は別の機会に譲る。しかしながら全ての作り手への暴力に対する怒りを、まずここに表明する。  

あいちトリエンナーレ2019は、「炎上」あるいは「(政治)問題化」することによって多くの耳目を集め、芸術についてのコミュニケーションをある側面では加速させ、しかし多くの側面では困難にさせている[1]。そして、その困難は、トリエンナーレが全く視野に入れていなかったものではなく、キュレーションの方向性としてそもそも見据えていたはずのものであるというのは、実際に鑑賞してみれば明らかだ[2]。しかしながら本稿では個別の作品から見えたものを別角度から見てみたい。それは、「美術たらんとして絵の具を使ってしまう」作品のいじましさのようなもの、についてだ。そのことを中心に簡単に論じてみたい。  

田中功起は、移民の子などのいわゆる「ハーフ」と呼ばれてきた人々のワークショップを通じた語りを中心に据えた映像作品で参加している。映像は1〜3に分かれ、全体では120分ほどの長さだ。仮設的なインスタレーションの中には、ワークショップで用いられた道具や、描かれた抽象画が展示されている。かねてより存在していながら、アートという、政治をも作品として扱える場においてさえ国内的には不可視化されがちであった[3]存在に光を当てるもので、出演者のそれぞれの経験や、自身の中での逡巡や、「わだかまりのほどけなさ」が、語りの中での、言い淀みや表情から伝わってくる作品となっていた[4]。それらは「語り」と言外の「語れなさ/語りづらさ」あるいは、「語りの場」と「それ以外の場」の対比が雄弁であるからこそ成立している作品なのであるが、しかしそこで用いられるワークショップで抽象画が選ばれ(そこまでは別に良いのだが)、その抽象画が映像中に画面いっぱいに映し出されるシークエンスや、壁面での展示には、それがアートであることのエクスキューズ(あるいは壁面のための埋め草)を感じてしまう。  

名古屋市美術館会場での今津景は映像が良い。ツールを用いた描画や、配置された画像が拡大縮小、移動していく様子の映像に別のフッテージを混ぜ、データモッシュさせたような映像であるが、デジタルツールの持つ独自の質感の様々なバリエーションを展開してみせており、コンパクトながら凝縮した映像は実に良い。一方で、その要素をペインティングとして展開する巨大な絵画作品は、どうしても旧来的な絵具の質感によって「頑張ってデジタル的な要素を再現した」絵画に見えてしまう。ここにはギャラリーで売っていくという下部構造をもってようやく「作家」として自身を設定できる――それは、映像が作品だと思っているが「食っていくために」やむなく絵画を描くのだということでなく、大学や文化行政上の制度上の区分として、そしてそれが上部構造としては「自分自身によるアイデンティファイの水準」で、ペインティングを制作するということが不自然に思われないという状況を作り出すものとして――という事情(今津個人にというよりも、美術の状況論として)が見えてしまうのは筆者だけなのであろうか。  

田中と同じ愛知芸術文化センターで作品を展示した村山悟郎にしても、受動歩行ロボットやパフォーマンスの映像などを用いたインスタレーションであるが、その中にドローイングが中心的な方法論として入り込んでくるものの、いまいち全体が統合された像を結ばない作品であった[5]。和田唯奈についても、絵画であることと、展示における仕組みが組み合っているとは言い難く、彼女はまずは画面に取り組む作家であろう。また、キュレーションの中では藤原葵を「当事者性」の問題とくくっていたのだが、アニメのスペシャルエフェクトを参照してギラギラとさせるだけの画面[6]は村上隆の四番煎じくらいだろう[7]
 

絵画を用いながら現代性や社会性にもしっかりと通じていたのは、作品生産量や、取材、現地での本人による解説など、その馬力の高さに驚かされる弓指寛治であろうか。豊田会場ではなかったが、愛知という土地で自動車事故についての作品に取り組むということには一定のハードルがあっただろう[8]と推測されるが、本人のかねてよりのテーマであるのだから、これはキュレーションの段階でそれなりに強い意思決定があったのだろう[9][10]。弓指作品は絵画史的に自身を位置付けてその更新を宣言する作風ではない。そのため「絵画として」問う内容が興味深いということはあまり無いのだが、描かれた(しばしば朗らかな様子の)人物について――その失われ方の、まずもっての重大さと比べながらの想像を通じて――感じ入ってしまうという機能をもっている。それだけに、実は田中の(もしかたらスノビッシュな)あり方とは違い、目を背けたくなるような問題に、人々の目を向かせる力があるかもしれない。しかもこれは、作家の人間性も大きく寄与することのように思える[11]
 

さてそもそも、近代以降、絵具を絵具として見せるということは、制作についての「問い」を引き受ける、ということのはずだ[12]。だからこそ、制作についての疑念を挟まない絵画作品――即ち、制作者の「内面」を何の摩擦も経ずに出力しているかのような作品――は、その問いを引き受けていないかのように目に映るのだ[13]。そして、制作の問題を最も引き受けて作品を制作していたのは、永田康祐であった。  

永田康祐の映像作品は、料理を通じて、翻訳や文化について語る映像作品だ。永田はローストビーフ、チャーハン、タイ風焼きうどんを作りながら、レヴィ・ストロースの構造主義的な料理の理解や分子ガストロノミーなどの近代的な料理ジャンル、Google翻訳上で起きた「事件」から、統計的でしかない機械による翻訳と、「炒めた米」に該当するアジアの各料理の翻訳不可能な固有名性、シンガポールが生み出したニョニャ料理と、台所事情から新たなレシピが生み出され登録されていくクックパッドの話題など、料理とその翻案、そしてデジタルの問題について語っていく。  

永田が述べる構造主義的な料理の理解や、分子ガストロノミーについての見解は、彼自身の著述の中でのデジタルデータのメディウムスペシフィシティについての理解――「デジタルは物理的な来歴を把持しない[14]」――の言い換えであることは明らかだ[15]。そしてそのように、離散的に厳密に管理できるようになった低温調理機を用いた、「実際にはローストしていない」ローストビーフや、日本で作られる「チャーハン」。そしてそもそもの語の意味が脱落してしまったパッタイ「風」のうどんを作る。果たしてこれらは、どのような来歴の料理といえるのだろうか。それらの料理は、物理的な来歴を「どの程度」把持しているのだろうか。それは実際に食べてのお楽しみ、ということで食事のシーンで映像は終了する。最後にレシピも紹介されるので、鑑賞者は誰でもそれを「追試」することもできる。つまり、永田は映像の中で、料理を「制作」してみせ「食事=鑑賞」するところまで映像に収めている。ここには、絵具を持ってくることで芸術に承認されようなどといういじましさは勿論無い。しかしながら、見事に現代的な「制作」の問題を映像作品としている。

(補記 筆者が展示を見たのは、8月20日、21日である。このため、当初より予定されていた展示のうち、展示中止・変更があった状態で鑑賞した。鑑賞後にも展示の変更などが断続的に行われている。)

レビューとレポート 第4号 2019年9月