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「ロボット模型」の遺伝子

日本橋三越で、3月31日まで開催されていた小野哲也「Accessories」。小野哲也の作品は、以前スパイラルでの40歳以下のギャラリーディレクターが主体となるアートフェア「ULTRA」([1] 第1回が2008年。小野は複数回出展している。)で見ていたが、久しぶりに見ることになった。本展では大きく分けて2足直立像の旧作と、3Dプリンターを用いた四肢の無いタイプの新作(作品の本体部分が共通)、そして抽象彫刻のようでもあり、ユニットパーツのようでもある小品を展示していた。
https://www.mitsukoshi.mistore.jp/nihombashi/shops/art/art/shopnews_list/shopnews0263.html

興味深かったのは、模型クラスタのリアクションで、原型師の浅井真紀は

「火曜の午前に、日本橋三越の小野哲也さんの個展を見て参りました。作品内容は勿論の事ですが、三越の美術品フロアにこれらの作品が存在し、調和していた事も、深く感じ入るものがありました。」
https://twitter.com/masakiapsy/status/1243136459466395649
と述べている[2]。 またTwitter上ではjun(@jun758)が最も長い感想を呟いていた。不躾とは思うが引用したい。
すっごいな。凄い。ものすごく複雑な感情が交錯する。(at 三越百貨店のアートギャラリー)
https://twitter.com/jun758/status/1244814480594235392
なんで三越でWFやってんだっけ?的な混乱。
https://twitter.com/jun758/status/1244814722387464198
(引用者註 WF=ワンダーフェスティバル。海洋堂が主催するガレージキットの販売イベント。)
アートに間違いない、この空間に相応しい。作品に否定的な感情は一切無いが、これが「そう」であるならば、先にここにいるべき人とモノがあるのでは?? みたいな。
https://twitter.com/jun758/status/1244815756006547457
村上隆を巡るあれこれは、フィギュアの人ではない俺には他人事だったんだな。ロボの形で目の前に現れて、理解した。
https://twitter.com/jun758/status/1244816592816328705
アートって難しいや。
https://twitter.com/jun758/status/1244816677549699072
デザイナー自らの手によるフルスクラッチのワンオフ作品が、お値段たったの5カイゼリン。バカ安。これはまじめに。
https://twitter.com/jun758/status/1244817915192307717
(引用者註 カイゼリン=永野護『ファイブスター物語』に登場するロボット「ゴティックメード」の一つ。ここでは株式会社ボークスが販売しているその玩具。8万円(税抜)。)
少し積層跡があるから3Dプリンタ出力併用かも。それにしても。
https://twitter.com/jun758/status/1244818566303477761
アートなので、タイトルプレートに画材の記載がある。プラスチック。いいねぇ。プラモじゃないけどプラモのロボットが、神妙な顔した三越店員さんの横に並んでる。
https://twitter.com/jun758/status/1244819288336154625
権威や箔付けを求める弱さとか、まだロボットの玩具?というコンプレックスとか、他ならぬ自分がそれを低くみてるとか、そういうドロドロが脳内でドバーッと出ますね。アートだ。
https://twitter.com/jun758/status/1244820813770981377
これが何らか文脈の下この場に置かれていて、それみて俺が何かを考えることが、アートというもの。という風に理解をしているがどうだろう。これだったら永野護/谷明ヤークトミラージュのほうが、という発想は多分アートじゃない。
https://twitter.com/jun758/status/1244822607783841792
アートの人じゃないな、俺は。その正反対の所にある、大量生産大量消費の象徴みたいなプラモが好き…と書きかけたら、小便器やキャンベルスープが脳内をシューって横切る。アート怖ぇ。
https://twitter.com/jun758/status/1244824905645875201
お昼に観てきた美術作品について1個追記メモ。模型じゃないからスケール表記はなく、だからこれが原寸の人形かもしれんし、機械人間サイズかもしれん。でも俺は瞬間的に巨大ロボと認識してしまった。理由は明らかだ。
https://twitter.com/jun758/status/1244866522931023872
ここで安易に〇〇みたいと片付けずに、なぜそう観たのか?を考える方が楽しい。目の訓練をしないと、解像度が落ちていく。
https://twitter.com/jun758/status/1244866988989505536

ここから話を拾うとすれば、

  1. この作品が「アート」であるということの意味についての思考。
  2. この作品をアートとして提示するならば、永野護/谷明のヤクトミラージュをまず挙げるべきではないのか?
  3. 特に明示されていないにも関わらず、巨大ロボット[3]のスケールモデルであると思って見てしまったのは何故か。
  4. といった話に腑分けできよう。ここでjunのつぶやきは、かなりアートに対して好意的な解釈かつ、自身で考察を深めるための思考が示されている。その意味で非常に倫理的な態度(したがって、それ自体は勿論非難の対象にはなりえない)なのだが、ここで浮かんだ「永野をまず挙げるべき」という感覚は、何も間違っていないように思える。

    永野護はメカニックデザイナー/漫画家であり、代表作として『ファイブスター物語』がある。『重戦機エルガイム』『ブレンパワード』のメカニックデザイナーや、『機動戦士Ζガンダム』への参加が知られている。谷明は、『ファイブスター物語』に登場する「モーターヘッド」のガレージキットの原型を手掛ける原型師である。
    一見であっても、詳しく見ても、小野の作品が永野が確立したデザインの文脈を基盤にしたものであることは明らかだ。無論、部分部分を見ていけば、永野が使わないラインを拾うこともできる。(ここで筆者は「〇〇みたい」を無粋に積み重ねていくとするが、)展示会場では作家と話す機会を得たが、作家自身の体験としてはむしろカトキハジメの「ガンダムセンチネル」の仕事に大きな影響を受けているし、メカ造形としては、藤岡建機や弐瓶勉の名も上がっている(確かに新作の巨大な造形は、藤岡建機の「ADVANCE OF Ζ」の終盤の拡大路線に通ずるものがある。また、旧作における爪先がストレートに着地する造形は、00年代以前には見られなかったセンスで、藤岡建機や島田フミカネ、海老川兼武以降のもののように思える。例えばカトキの「電脳戦記バーチャロン」におけるフェイ・イェンや、続編に登場するフェイ・イェン・ザ・ナイトは、他のバーチャロイドと比較すれば小さめであるものの、足先はまだ大きい。新川洋二のデザインまで行ってしまうと今度は足首そのものが無くなってしまうのだが、人間の関節のタイミングを外した仕事としては、「ZONE OF THE ENDERS」のラプターが思い当たるかもしれない)が、当然のように永野の名前も挙がるし、決して影響を隠匿しているわけではない。

    別の文脈に存在する作品をファインアートに持ち込むことを指して「文化盗用である」とする向きもあるが、文化的な盗用や簒奪と呼ぶには、小野の出自も、作品そのものも「ロボット模型」の純粋な延長線上にあるように見える。加えてこれらの「ロボット」には「設定」が存在しており、それらの「設定」をもとに造形が決定されている。これら作品が、ワンダーフェスティバルの会場に存在したとしても、全く違和感はない。これが「巨大ロボットに見えた」のは、当然のようにその造形が負っているものから来る印象だ。

    日本美術史上でも大きなコンフリクトとして記録されるのは、junも言及している通り、村上隆によるオタク表象の利用に違いないだろう。村上の仕事は「スーパーフラット」 というキーワードを設定しつつ、日本画という出自に加えて、日本式のポップアートとしてオタク文化表象をそこに接続しつつ、自身をプレゼンテーションするというものだ。来歴の紹介という意味では、村上は「アートの観客へのオタク文化の紹介者」でもあり(そのために展覧会を組織したり、図録を作成するといった方法を取った)、しかし「アートからのオタク文化の一方的な解釈者」でもあろう。岡田斗司夫に自作を「中小企業の社長がオタク文化を勘違いして作らせたOVAみたい」と評されたことに喜んだというエピソードがあったと記憶しているが、村上の仕事の本質は、オタクが求めるものからすれば徹底してズレており、そのズレの中に批評性を持たせる「勘違い芸」にある。ズレているからこそ、オタクの欲望をデフォルメした形で提示することができるのだ[4]

    では、小野の作品は一体どのように評するべきなのだろうか。まず作品を見てみれば、画像で見た印象ではまるで感じなかった(かなり久々であったので、ほとんど印象からは無くなっていた)、腰部や頚椎部のあまりの細さが明らかになる。立体作品であることで、写真の印象以上にその「細さ」が目に訴えかけてくるのだ。一般に、写真を経由すると、肉眼では意識されなかった粗がより見えてくるということがある。模型においても表面処理の精度などは、撮影しディスプレイに表示されたり、印刷されることによってより際立って見えることがある。小野の作品は色彩を廃しているため、パーツの形態やパーツ同士の段差が生み出す陰影が重要な要素になる。日本橋三越の照明は、作品に合わせたベストとはいかない照明であったものの、作品を前にすれば十分にその造形の精度と、その精密さが生み出す圧力を感じられるものであった。これはワンオフ、あるいはマルチプルの彫刻[5]として、その造形をもって十全に自律した作品であると見て良いものだ。

    一方で、異なる複数の(これを「2つの」と二項対立とする性急さは控えるべきなのだろう)文脈を背景にしていることについて、どのように評すべきなのだろう。一つは、小野は決して村上のようにアプロプリエ―ションによって批評性を獲得しようとはしていない。また「ついに小野によってロボット模型は一個の自律した彫刻の域に達したのだ」ということでも無い。造形性の視点からして小野の作品とモーターヘッドのガレージキット群は並べ立ててどちらに遜色があるということではない。メカニックデザインとしての達成を評価すべきだろうか。その視点からすれば、小野の作品は永野的なものに大きく依っていると言って構わないだろう。それまでの「ロボットデザイン」が、商品化やメディア展開を前提としたデザインであったことを思えば、その豊かさと同時に制約が存在していることも分かるだろう。その制約を取り払ったときに、「彫刻」として試みられる事柄は、小野の現在の試み以上にもっと幅広くあるはずだ。出自を尊重しつつ、新しい領域に踏み込んでいくポテンシャル、化学反応を起こすポテンシャルは、この作家には十分にある。その混交が成功すれば、模型が前提としていた=思考から除外していたことと、彫刻が前提としていた=思考から除外していたことが、それぞれ明らかになり、模型にも彫刻にも新しい視点をもたらすに違いない。村上的な双方の「落差」を作り出すことの批評性ではなく、双方の「芯を喰った」批評性の可能性こそが、小野作品が持つ遺伝子が持ち得る可能性だ。