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「解体されるキャラ」再考 

2009年の展覧会「JNT×梅ラボ 解体されるキャラ」展は、キャラクター概念について批評的な仕事を展開している作家を紹介すべく、JNTHEDと梅沢和木の二人展として企画された展覧会であった。展示は、武蔵野美術大学芸術文化学科に在学中の筆者がゼミ内コンペで企画したもので、ゼミ内部ではコンペ1位の企画のみが実現することになっており[1]、会場は学科のスペースであるapmgにて行われた。ゼミでのお題は「アートと社会」であったが、そのようなお題に対して、筆者には既にソーシャリーエンゲージドアート的なもの(当時そのような言葉は無かったが)への批判意識が存在していることが、会場で配布したリーフレットを読み返すとわかる。若気の至りならともかく、誤認などもある(たとえば、「社会にとって美術史はもはや自明のものではない」としているのだが、そもそも美術史が自明であった時期などあるのか?)気がして恥ずかしいのだが、許してほしい。まずはリーフレットのテキストを全文引用しよう。

解体されるキャラ

「アートと社会」

そもそも、アートとは何か。作品を「これはアートである」と指し示すときの条件は何だろう。すでに了解されている一定の素材や手続きにのっとっているのか。(これは油画である。これは木彫である。)アートマーケットに乗る市場性があればアートなのか。美術館に置かれればアートなのか。あるいは、先行する何らかの作品に対して批評性を持っていれば、アートなのか。

社会をどのようにとらえるべきなのだろう。近代のアートを支えてきたのは、画商であり、コレクターであり、美術館であり国家であり、美術史である。しかし社会に公共圏がありうるのだろうか。どうすれば、美術史が社会に対して公共的であり得るのだろうか。たとえば政治性を取りこめばアートなのか?それがジャンルとして自閉化してはいないか。「お説教」と捉えられてはいないか。むしろ誤配———ジャンル的自閉からの脱出———を企てるべきではないか。
今回の展示は授業内にて企画された。与えられたテーマは「アートと社会」である。しかし、社会にとって美術史はもはや自明のものではない。それならば、今日の表現と、社会の変化の交点に寄り添い、問い直すことで公共的な仕事ができるのではないだろうか。

「ただのキャラには興味がありません。」

今日、キャラは猛然と流通している。アニメ、ゲーム、マンガといった商業レベルの表現はもとより、同人誌やインターネットでの二次創作を含めればその量は余りにも膨大である。
イラストSNSのPIXIVが開設されたのは2007年の9月。2009年6月時点での発表では会員が100万ユーザーを突破し、一日の投稿数が15000枚。月間7.2億ページビューという大規模なサービスとなっている。それだけの規模の人間が、創作を行い、鑑賞が行われている。その中で流通するイラストはそのほとんどがキャラ絵である。
一方でアートマーケットでは、奈良美智に代表されるように「キャラ」絵が流通している。 「キャラ」を描くものは数多い。しかしそれがいかに成り立つか、というキャラを解体する思考は少ない。今回の企画では「解体されるキャラ」をテーマとした。取り上げた作品は、必ずしも作家が「キャラ」とはいかに成り立つかという「命題」を意識して制作したものばかりではないだろう。あるいは魅力的なキャラを生み出そうとする過程でこそ、そのような作品が生まれる契機ともなる。

「キャラ」のメディウム

JNTが2004年から発表している『デフォーム』と題されたシリーズ(1)では、Photoshopを使用して写真をデフォルメして「キャラ」化させる作品である。それら「Deformed Girl」のプロポーションはJNTの描く「キャラ」のそれである。デジタル技術による写真の加工は、広告やプリクラ、果てはカメラの内部でさえ当然のように行われている。しかしそれらの加工とは異なり、『デフォーム』ではツールによる加工の痕を消そうとはしない。直線選択ツールによってあらわれるジャギーや、拡大によるブロックノイズの痕は、鑑賞者の前に提示される。そこでは、キャラとはどのように成り立つのかということが———「キャラのメディウム」が、暴かれている。
梅沢和木は、ウェブ上にある無数の画像を蒐集、集積し、クラウドあるいは小宇宙のような画面を作り上げる。『untitled』(2)では画面の中で「キャラ」は分解され、反復され、引き伸ばされるが、それでもなお断片は「キャラ」のある種の「輪郭」を保ち続け、固有名(これは「ハルヒ」。これは「かがみ」(3))を失わない。ここでは、一度確立された「キャラ」が断片と化しても、「ひとつの統一された画面」の中で異物として残り続ける。

「ハッカーマインド」と「サイバネティクス」

では、キャラを解体すれば面白い作品になるのだろうか?
JNTは、ウェブ上で精力的に作品を発表している。それも、イラストの複数バージョンの制作(4)、発表メディアの変遷(5)及びそれらを常にhackしようとする姿勢、あるいは4つの人格を持つという「設定」も含めて、ウェブにおける作品の在り方を常に思考している。内的な論理は別にある。それは「ハッカーマインド」である。
「ハッカーマインド」に語弊があればあるいは「トリックスター」とでも言える振舞いを JNTは続けている。イラストへのオノマトペの積極的な導入(6)や、ジャギーや油絵の質感を偽装する作品(7)、あるいはゲーム『世界樹の迷宮』のマッピングシステムを利用したドット?絵(8)など、作品レベルで見ても、かなり多種多様な試みを行っている。それらの試みはある種の「快楽原則」によって方向づけられており、それこそがトリックスターの資質 となっている。
梅沢和木は、シューティングゲーム『東方』シリーズの弾幕の美しさや、音楽ゲーム『beatmania』をプレイする際の身体感覚を語る。出力された画像に筆をのせて作品を完成させるが、そこで使用される画材は蛍光色やラメが使用される。これらはRGBの輝きへの接近と取れる。しかし、既にある画面に筆を置いていく作業とゲームをプレイする際の身体性の感覚との類似を梅沢は語る。梅沢の作品の中にあるのは「サイバネティクス」の感覚である。
「サイバネティクス」とはギリシャ語で「舵取り」を意味するキベルネテスを語源とする。舵を取り、船を目的地へと運ぶためには、目や方向感覚、あるいは手足からの情報を総動員する必要がある。いわば身体が船にまで拡張された「船人間」とでもいうべき状態といえる。「サイバネティクス」で意味が広ければ、「ゲーム的身体性」や「Photoshop的身体性」とでも呼ぶべき感性である。「船人間」「自転車人間」そして「ゲーム人間」と連なる、常に更新される身体性が、表現を更新する。写真技術による絵画の変質のように、「Photoshop人間」の登場が新しい表現の地平を見せる。Photoshopのツールの痕跡は、デジタルなブラッシュストロークの感覚として知覚される。
それらの精神/感覚が、これらの作品をエキサイティングなものにしている。しかし、まずは、これらの作品が美しい、よい、格好いい、ヤバイ、面白いということを感じてほしい。理屈は常に事後的なものである。

  1. http://rakgadjet.fullmecha.com/deform_log2004/
  2. http://umelabo.info/works/016untitled/000.html
  3. 『涼宮ハルヒの憂鬱』の「涼宮ハルヒ」、『らき☆すた』の「柊かがみ」
  4. ウェブサイト:http://rakgadjet.fullmecha.com/
    お絵かき掲示板「ラクバ」:http://rakgadjet.fullmecha.com/rkb_entrance.html
    blog:http://jnthed.blog.shinobi.jp/
    pixiv:http://www.pixiv.net/member.php?id=4395
    ustream:http://jntv.fullmecha.com/
    など、メディアによって発表する画像が別ヴァージョンになることも多い。
  5. pixivでの「スリープ」
    http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=753552
    やmixi上での「ラクバ・ツー」
    http://mixi.jp/view_community.pl?id=2021522
    の活動、あるいはtwitterでは4つのアカウント http://jnthed.blog.shinobi.jp/Entry/67/
    を使用するなど、徹底的にツールへの介入、あるいはシステムへの抵抗を行う。
    http://rakgadjet.fullmecha.com/oscar1.htmlなどは、2004年のものを2008年に再制作しており、またトリミングヴァージョンと全身ヴァージョンの複数が存在する
  6. たとえばhttp://rakgadjet.fullmecha.com/vtol.html
  7. 『ダミーオイル』http://rakgadjet.fullmecha.com/oldovertechnology.htmlや、『ジャギっこ』http://rakgadjet.fullmecha.com/jagikko.html
  8. http://fullmecha.com/cgi-bin/rakbudjet/data/IMG_000458.jpg

上記URLは現時点ではほぼ消滅していて、データの脆弱さを感じるばかりである。
さてこの展示は、実際には2名の作家から直接の許諾を得て、作品の生データや、物理的な支持体を持つ作品を借りうけ、作家インタビューの上映や、会期中のアーティストトークを行うという展示となった。しかし構想初期には、「展示されるものはインターネット上にある画像」のみで、そこにキュレーションが加わることで展覧会になる、という構想があった。加えて、両作家の依拠する「キャラ」というモチーフ、「画像」というメディウム、「インターネット」というフィールドは、全てアートの権威からは遠く離れ忌避されるものであった。つまりこの展示は、作家も、そして展覧会としても、芸術の権威と全く逆の位置にあり、しかしながら、(だからこそ、)「芸術性」においては最も卓越した位置にある作家の紹介として企図された展示であったのだ。本質的にはデジタル画像がインターネットに、つまり世界中に公開されている以上、そのような「展覧会」は現在もまた可能な形態としてある[2]。あるいはもっとマイルドに、「高解像度で公開されているパブリックドメインとなったマスターピースをディスプレイで表示する展示空間」ならば、権利的な問題も全く無く可能なはずだ。たとえば大塚国際美術館は、陶板によって「世界の名画」を再現してしまうという「荒業」によって成立している美術館であるが、デジタル画像ならば、より小回りの利く形で今すぐにでも実現できる。たとえば大学のような施設の一部を、週替わりでマスターピースをプロジェクションやディスプレイで表示するギャラリーにすることも技術的には可能だ。
実物をコレクションすることこそが、ミュージアムの権威の源泉と言えるのだが、デジタル画像が高解像度化するならば、その「代替品」は技術的には用意可能なはずなのだ。「日本の美術は遅れている」という煽りも最近はあまり聞かなくなったが[3]、仮にその遅れがコレクションの厚みから来るものだとすれば(そしてその要素は多分にあるように思われるのだが)、「代替品」の整備に注力することは、たとえば「現代美術の国際発信力強化」などよりも国家的戦略として採用して良いほどに、妥当な注力の仕方に思える。さらに言えば、データが「原本」「本物」であるデジタル画像が作品の単位なのであれば、「物理的支持体を占有する」ことには全く意味が無くなりもする。
2009年当時、デジタル画像が溢れる時代は、キュレーションの時代の到来かと筆者には思えていた。しかしその後に到来したのは、アートの用法からは拡大解釈された「キュレーション」という用語が用いられた「キュレーションメディア」ばかりが増殖する時代であったのはなんとも期待はずれであった[4]

さて、「キャラ・画像・インターネット」という問題意識は卒業論文「創造の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―」、あるいは「画像の問題系 演算性の美学」へと継続していくこととなる。

しかして、この展覧会の両者以上に、キャラを批評的に捉えようという仕事はその後生まれ得なかった、というのが筆者の偽らざる感想である。この連載の初回が「キャラクターを『批評的に』扱うために」というタイトルであったのも、その感想に根ざしている。キャラを歪めて描写する作家は、断続的に出現し続け、最近もぽつりぽつりと現れている[5]ように、造形していくなかでその限界を探ってみようとするのは、ユニヴァーサルに発生する現象であり、同時にそのメディウムを問う原初的な行為だ。しかしながら、それを「作風」とする者が、キャラの成立を問い続けるのかといえば、むしろ一度確立した芸風を飽きもせずに続けるという場合ばかりだ。谷口真人[6]も、東麻奈美も、一つの作風を確立したと思えば、展開無くここまで来ているし、まだキャリアとしては浅いものの、既に装画として作品が採用されているという華々しいデビューを飾っているさめほし[7]も、初見より展開が無いままに進んでいる。乙うたろうも、《つぼ美》からの展開が求められる。比べれば藍嘉比沙耶や、相磯桃花[8]は作品を展開させ、思考しようとしている。紙透みふも、さらなる作品の展開を期待したいところだ。

梅沢とJNTがその後の展開でキャラの成立を問う仕事を更に展開し得たかといえば、それもまた評価し難い。梅沢については、《グラシャラヴォス》や《少女千万魑魅魍魎》が、コラージュとして明らかに優れた仕事であったにも関わらず、《うたわれてきてしまったもの》によってそのコラージュは装飾へと退行し、その後の展開は画像の記号性を失っていくと評した[9]が、その見立ては大きく変化していない。JNTはむしろ「作家」としてペインティングへ、そして映画・アニメの美術[10]・メカニカルデザインへと分野を大きく変化させ、画像やキャラを挑発する仕事はなくなっていく。
キャラというモチーフを扱うことが、この社会についての芯を捉える瞬間が00年代にあったのは間違いのない事実であるし、梅沢の記号のコラージュ(もちろん、そのアイデアは直接には東浩紀の「データベース消費」理論からのインスパイアといえるし、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の装画などは梅沢に先行している)や、JNTのデフォームは、現在までも十分な射程を持った表現である(デフォームは2004年が初出であるが、近年のSNOWの流行を持ち出すまでもなく、顔面の加工、変形、強調は、人類にかなり普遍的な文化としてそもそも存在している)。
しかし、現状においてキャラを批評的に扱うということがどのように可能なのか。たとえば、GANで生成されたキャラが途中でほとんど「不気味の谷」を経ずにモーフィングしていく様[11]などは、離散的(デジタル)な記号の組み換えではなく、連続的(アナログ)な変形を見せつける。つまりここにきて、キャラのデータベースはその情報量によって質的変化を起こし始めているのだ。データベースの表象は、切断面の見えるコラージュから、アマルガム的な変形へと変化していくかもしれない。

「低解像度」表象においては、なるめ[12]やYUI[13]、millitsuka[14]などが「ドット絵リバイバル」に続く16色リバイバルや、スクリーンセーバー的な表象を扱いはじめている(ビデオ画質やPS1風なども、若い世代で取り扱おうという層が増加してきてもいる[15])。彼らがこの先に、時代固有のメディアの質感をどのように扱い、あるいは手放していくのかについては注目して良いだろう。
また、イラストレーターをプロモーションに大量に起用しているZONeの特設サイト[16]では、グリッチ、虹色のグラデーション、色収差風[17]の蛍光色などのエフェクトが積極的に用いられている。これらは、画像の画像性を敢えて見せようという態度がエフェクトとして現れている例だろう。画像の演算性の美学は、デジタル画像「そのもの」に発生する現象から離れ一つの美学となり、エフェクトとなった。それらがエフェクトとして採用されるのは(グリッチにおける「グリッチアライク」が「本質的で無い」ものとして語られがちであるように)実質的なものでないようにも思えるが、しかしエフェクトとして採用されるということは、そこに「美意識が反応している」からにほかならないのだ。その意味で、画像の演算性の美学は確かに人々の中に今現役で生きている美意識だろう[18]



(レビューとレポート13 2020/6)