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マネからはじめよ 

マネの筆触

絵画は平面的な画像であるがゆえに、複製技術と隣接して複製された画像を広く伝播させることができる。その性質のために、この地球上のただごくわずかの空間に特定のあり方で配列された物質でしか無い絵画は、そこに直接赴いたことのない人々にまで、その画像の内容が知れ渡っている。絵画は物質であるがゆえに、印刷技術や普及品としては捉えきれない色調の豊かさや、凹凸によるニュアンス、画布と画家との間を取り持つ筆や絵具といったインターフェイスの痕跡を色濃く残す[1] 。エドゥアール・マネ[2] の絵画は、「絵具の絵具性」の発露著しい絵画だ。

 

印象派に先行する画家として知られるマネの絵画において、その筆触は作者の運動の痕跡を色濃く残す。そしてその痕跡が記録するのは、ただの即物的で物理的な「運動」だけでなく、モチーフの造形をどのように「視線がなぞり」、どのように筆触へと「翻訳」したのかという作者の内的な思考なのだ。マネがモチーフを画面へと「翻訳」するときに採用する方法論はドローイングにおけるそれに近い。
たとえばほぼ同時代の新古典主義の絵画を見ると、「対象が実際にそこにあるがごとく」表現するために、3次元的な理想的モデルを仮構し、ライティングを設定し、「色調と質感をよりよく再現できる手法」を採用して各箇所を「作り込んでいく」という、いわばモデリング的な(あるいはデッサン的な)方法論を採用している事がわかる。

ジャック・ルイ・ダヴィッド《書斎のナポレオン・ボナパルト》https://www.nga.gov/collection/art-object-page.46114.html

「金属や光沢のあるもの」「布」「人体」それぞれの質感ごとに描法が選択されていることが分かるだろう。人体の描写では、青みがかった部分と赤みがかった部分を描くことで、血色の良い人肌を表現している一方で、光沢のある部分には明暗の階調の極端さを出すことで、反射をよく表している。また、椅子の描写に注目すれば、環境光の反映という発想が無いわけではないこともよく分かる。

部分:主役となる対象と、背景となる部分とで色調の幅を大きく変化させることで注視点を丁寧に設定してやる、という方法も取られている。

一方でマネの静物画に目をやれば、ぬるりとした牡蠣の内側の光沢が筆触へと「翻訳」されつつも、絵具であることを隠そうともしていないことがありありと分かるだろう。

 

エドゥアール・マネ《牡蠣》 https://www.nga.gov/collection/art-object-page.46427.html

 

部分:牡蠣に対して背景となるブルーグレーは平滑に塗られており、荒い筆触が単純に道具の都合ではなく、「敢えての選択」として用いられていることがよく分かる。  

短い時間でスケッチやドローイングを行う際、つまり、見た対象を鉛筆やペンで描く場合、形は「描線」へと翻訳され、対象の輪郭をなぞるように紙に線が引かれる。線で囲まれた領域の内側部分じたいには何の変化も無いにも関わらず、そこにはボリュームが生まれることになる。一方で、見た対象を絵具で描く場合には、抽出される形態はより複雑なものとなり、輪郭だけでなく面的な形態や色彩までもが捉えられることとなる。
モデリング的な方法論では、「省略」という手順はあまり存在せず、描くべき対象は愚直に「きちんと」描写される。他方でマネは、絵の具を用いているにも関わらず、最小限の手数で描写を成立させてしまうのだ。

 

エドゥアール・マネ《メロンと桃のある静物》 https://www.nga.gov/collection/art-object-page.46004.html

 

部分:グラスの透明表現に注目すれば、それが必要なだけの色数が使われながらも、あまりにも少ない手数で「グラスに成っている」のが分かるだろう。  
不透明なメディア
 

マネの絵画は、絵画表現への批評として機能している。つまり、絵画が成立する瞬間で筆を止めてしまうことによって、絵画成立の要件を隠蔽することなく暴いてしまっているのだ。「画面に描かれたものがまるで人物のように見える」から絵画に価値があるということではなく、そう信じられる瞬間の二重性――その像はしかし飽くまでも絵具に過ぎない――を暴き立ててしまうということは、人間が何かを信じるその梯子を外してしまうということでもある。自己純粋化の傾向がモダニズム絵画の傾向であるとグリーンバーグは指摘したが、その始まりに彼がマネを持ってくるのは、作品を見れば明らかだろう。
一方、抽象画になると失われてしまうものとして、具体的な対象を描く絵画には、「モチーフのゲシュタルト」が存在しているという点だ。
ゲシュタルトを作り上げ、それを疑わせる隙間をなるべく潰していくことが、「完成度の向上」であるのが、ダヴィッドの絵画であるとすれば、ゲシュタルトが生まれた瞬間を見せるのがマネの絵画だ。だから画面には像の全体(ゲシュタルト)と筆触の二重の見えが存在することになる。あるゲシュタルトを違うゲシュタルトと同時に認識することはできない。たとえば、「スピニングダンサー」として知られる回転方向が右か左かがわからなくなる錯視があるが、「右回りであると同時に左回りである」ようには人間の脳はそれを認識することはできない。ダヴィッドの絵画においては、筆触性は限りなく隠蔽されており、「筆触そのもののゲシュタルト」を認識できる箇所は光沢のハイライト部分など、ごく僅かな箇所だ。一方でマネの筆触は、筆の軌跡がありありと伝わるほどに明確だ。しかし人間は同時に二重のゲシュタルトを認識することは出来ないので、画面が静止画であっても、認識の中で筆触と像が交互に入れ替わる。これは、画面との距離によっても見え方が変わってくる。絵画の前で鑑賞者が矯めつ眇めつ、体を前後させながら作品を鑑賞しているのは、この「認識の変動」を引き起こしつつ鑑賞しているからにほかならない。

そのメディアの最初期状態において、そのメディアの持つ本質的な特性がよく現れる。たとえばドット絵は解像度や色数の制限があるからこそ、そのメディアとしての本質――条理性をもった矩形の配置という、画像の演算性――をあらわにする。あるいは、4色刷りよりも2色刷りにおいてこそ、色のかけ合わせによって像が生み出されることの驚きが感じられたり、線画による人物の表情の変化にこそ、人間が角度に感情を読み取ってしまうことの不可思議さが現れもする。メディアとは、異なる別の物を代わって表すものであり、「別の物」として認識される最初の驚異――「成る」瞬間とは、メディアが確立した瞬間、つまり初期メディアにこそ現れるものだからだ。その後、メディアが高度になっていくというのは、メディア固有のジャンプの仕方でなく、より表されるものに近づいていくということであり、メディアそのものはより「透明」な存在になっていく。
マネの仕事は、メディアが透明になった後に、もう一度絵具の「不透明さ」をあらわにする仕事だったのだ。



  レビューとレポート第15号(2020年8月号)