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「異常な」/「ちゃんとした」パープルームギャラリー 

パープルームギャラリーは実に小さなギャラリースペースだ。パープルーム予備校と隣接しているとはいえ、相模原駅から相応の距離があるうえ、壁面としても3面あるだけの空間だ。しかし開廊以来継続的に展示を行い、情報発信を続けており、作品の展示数や見応えに関しては必要十分という意味で「最低限」のレベルであることもあるが、各展示の内容に関してはパープルーム主催の梅津庸一の姿勢が明確に打ち出されている。そのラインナップとして、松澤宥の遺族を訪ねて見つけた初期のドローイングや、予備校生の個展、外部キュレーターとのコラボレーション[1] 、韓国の作家の紹介、市民ギャラリーで展示をするような、絵画教室に通うシニア世代の日曜画家の展示など、列挙すれば展示のコンスタントさに対する幅の広さに驚かされるだろう。また殊更重要な点として、記録集としての冊子を「毎回必ず」作成していることを挙げてよい(しかも内容は、しばしばカラーで、インスタレーションビューまで載っていることが多い。撮影やレイアウトまで含め2日程度で作ることもあるという。これは「爆速」と言っていい)。「傾向と対策」[2]と言ってみせる梅津らしい「ちゃんとした」仕事の仕方だと言っていいだろう。

星川あさこ「ファンタジー・ホスピタル」はそんなパープルーム・ギャラリーで2020年7月23日から7月31日まで開催されていた展示だ。星川は今回、粘土やビニールパイプといった素材を用いた立体/半立体作品から、ドローイング、ペインティングまでメディウムや画材については高い自由度で横断しながら、「ファンタジー・ホスピタル」というテーマで作品を制作している。そこには臓器的なイメージや、無数に増殖していく様子(星川は「きのこ」のモチーフにも関心をもっている)、火で炙ることで表現されたテクスチャーなどの要素を垣間見ることができる。会場はピンク色の照明で照らされ、外部の自然光が色順応のせいで緑色に見えるほど、目がチカチカする空間となっている。決して「洗練され」ていたり、「展示空間に応えられる」堅固さを持つとも限らない星川の作品は、しかしそのためか作家の創作意欲がそのままの速度で次々に作品化していく興味深さも内包する。個別の作品(の完成度)への注目よりも、毎回その出力の仕方を「変奏させていく」仕方を見出すことで、より見えてくるものがある。時にその速度こそが、ドローイングのチャーミングさでもあるだろう。

続くしー没「dear戸田さん〜お願い!!ブロック解除〜」展(2020年8月20日〜28日)では、壁面いっぱいに、しー没が普段ドローイングで使っている色鉛筆やオイルパステルなどの画材が展開し、更には一部の領域はペンキを使って白く潰されている。初挑戦というこの壁画は、しー没の画面構成に対する反射神経が、普段の狭い用紙の空間から解き放たれて存分に発揮されており、用いられている画材の「弱さ」を差し置いて圧倒的な構成で画面を作り出している。画中には、小学生男子が授業中に落書きしているような造形のキャラクターが描かれるが、画面への貢献という意味ではあまり重要ではなく(とはいえ作家にとっては描画のとっかかり、あるいはモチベーションとして基調にあるように見える)線の重なりや響きあいの妙は、それを即興的に構成してしまうしー没の構成力の高さを示している(一部、ペンキによる「ミュート」が効いているのも、他の画材が壁に対してガサガサとした質感を得ていることとの対比もあり、心憎い)。

梅津は星川あさこの作品の作り方をして、「図画工作的なもの」というキーワードを出す。パープルームの「美大批判」は半ばポーズのような側面があるのだが(加えて言うならば、パープルームメンバーの安藤裕美が「藝大をやめてよかった」と言いたいがために梅津の意図以上の過剰な言葉で発言するかのような傾向があるため、余計に美大アンチ的な図式に見えるのだが)、梅津の狙いとするところは、「美術を形成するものの複雑な水脈に注目せよ」ということだろう。そこに「図画工作的なもの」という言葉も出てくる。星川自身は美大教育や美大予備校教育を経由しないままに作品を作りはじめた作家であるが、一方で高校のファッション科を卒業し、陶芸教室といった教室文化にも触れており、造形教育やデザイン教育を十分に受けている存在だ。したがって梅津が問おうとするものは、「美術教育とは」というよりは、「美大教育」によって、あるいは「ファインアート業界へと作品をプレゼンテーションしようとする際」に‟去勢”される‟恥部”(そしてその感受性はたとえば美大教育においては「言語化」というよりむしろ「内面化」される)とは一体なんなのかについてなのだろう。たとえば、星川の扱うビニールチューブなどの樹脂系の材料も、その扱うバランスを誤れば、全体的な作品の緊張感を破壊してしまう。そして実際、星川の作品においては、コンテンポラリーアートに求められる水準の緊張感(あるいは、逆に振り切ったキッチュさ)は無い。
そして星川やしー没の作品中に現れるキャラ表象は、永らくコンテンポラリーアートの「恥部」であり続けている[3]。梅津にとってその恥部は、オーソリティーの表現とも同根であり、なおかつ連続的に存在しているものなのだ。「『トリミングされるべき』恥部が、しかし実際には連続性を持って存在している」という姿勢は、梅津が自身を裸体で描く点描作品の構造ともまさに共通していることに気づく。その意味では、パープルームの展示はやはりすべて、梅津の「拡張された自画像」に見える。

gnckは傑作主義であり、傑作こそが重要だと考えるが、梅津はそうは考えない。たとえば点描であれば、接近したときの点描の粒子の粗密だけでなく、それぞれの点の方向性や大きさの違い、明度や彩度の差異によって、煙や星雲のような壮大さまでもが見えてくること、そこまでコントロールし切る(ということは一方で、筆や手に「任せる」ことでもあるのだろうが)天才性を期待するのだが、梅津の点描にそのような壮大さは無い。
しかし、梅津はおそらくそれでもかまわないと考えている。個々の要素全てが傑作ではなくとも、そこに並ぶものは多様であり、個々の‟凡庸さ”も含め(しかしその凡庸さには見るべき多様性が備わっており)、それが芸術の豊かさであると考えているはずだ。つまり梅津は、「天才たちだけがリストアップされることで描かれる歴史の全体性」ではなく、そのトリミングを取り払った先の「恥部との連続性」の豊かさをこそ、訴えようとしているように見える。梅津の仕事の幅や丁寧さ、量に対して、称揚しようとするものがあまりに「凡庸なもの」だと私は思う。それが明確に見えたのは、日本橋三越が新たに現代美術も扱おうとする「三越にしてはチャレンジングな」スペースであるMITSUKOSHI CONTEMPOARY GALLERYにて開催された「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」だ。この展示では、明らかに、梅津以外ではやりようもない組み合わせの作家(日曜画家と、「百貨店画家」と、コンテンポラリー作家、そして星川のような作家まで)を並べつつも、そのことによって今までの何かを「ひっくり返す」ような爆発的な価値転倒をするまではいかない。確かな鑑識眼や、状況を見る解像度、そして着実に必要な手札を切る「ちゃんとした」手付きで活動を行いながら(なんなら予備校生にモーニングコールをかけるという「ケア」の姿勢までも見せながら)、一方で称揚しようとするものが「凡庸」であるというこの異常さこそが、梅津庸一/パープルームの特質であり、この異常さを浮き彫りにするためにも、パープルームという謎の集団とその主催者たる梅津に密着した「ドキュメンタリー」さえ求められているように思っている。



  (レビューとレポート第16号 2020年9月)