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美術の学びについてのメモ

「芸術を教育することは可能なのか?」という問いを見かけることがある。これは、芸術の動機が飽くまでも個人の内発性であり、それが純粋に表現されるべきであるという信念と、教育という、他者に指導されることとがそぐわないことによって生まれる問いなのであろう。一方で、「絵の描き方を教えてくれないから、美術が嫌いになった」というエピソードも、いまだに聞こえてくる[1]
美術教育に関する議論は、俗には個性と技術をめぐる軸で展開されてきた。つまり、いかに個々人の内的な個性を十全に発揮するようになるかという、個人主義的、表現主義的教育観と、手本があり、それをいかに「上手く」描けるように習得するのかという技能主義的な教育観である[2]

教育政策において、教育は初等教育、中等教育、高等教育と分けられている。日本では、幼稚園、こども園、小学校を初等教育、中学校、高等学校が中等教育、高等専門学校、専修学校、大学が高等教育に相当する。学校教育においては美術教育がどのようにあるべきかという議論は、「美術の専門教育が何を目指すべきか」というものではなく、「学校教育全体の中で、美術教育がどのような役割を果たすべきか」という形を取る。学校教育は、まず「人格の完成」という全体としての目標があり、その中で各教科や領域が、役割を果たすという建付けになっている。
法的な拘束力を持つとされる学習指導要領を見てみれば、実はそこには具体的なカリキュラムについてはほとんど示されていない[3]。法的な拘束力をもつ文書にはあたらない「解説」において題材が示されているものの、それは飽くまでも例示に過ぎず、実際のカリキュラムの策定は、教師の裁量に任されている(もちろん現場において教師の気分で決定されているわけではなく、年間指導・評価計画などの文書が策定され、実施されており、各教科書会社は例となる年間指導計画を作成しており、各教師はそれを参考にすることができる)。

義務教育段階においては、被教育者全員が図画工作・美術教育の対象者となる。したがって美術教育も、専門家教育や、職業教育としてではなく、「人格の完成」に資する、感性的領域についての教育として、観察や素材とのやり取り、あるいは内的な発想に基づいて表現すること及び鑑賞することが重視される。
美術の初等教育である図画工作においては、作品制作にとどまらない活動として「造形あそび」という領域が設定されている。ここでは身近にある様々な素材との応答や、積極的に「試す」経験を通じて、色彩や形態、多様な素材に触れることが重視される[4]。また、中等教育においても、「観察したことに基づいて表現したい内容を決定し、それを作品として表現する」という内容が示される。ここでは、「上手に描くこと」が否定されているというよりは、「表現者自身が何を表現したいのかを自己決定する」プロセスを重視している。言い換えれば「自分自身が粘り強く自分の表現を探求する」ことが要求される。つまり、「手っ取り早く上手に(正確に、魅力的に)描く方法を教えてほしい」というニーズとは衝突しているとも言っていいだろうし、ここでは「別に表現なんかしたくない」という感情は尊重されない(「まぁ、その気持ちは分かったけどとりあえずやってみよう」)ということにもなる。これは「個人主義のように見せつつも、根本的には強制を孕んでいる」という点で欺瞞的といえるし、教育がどこまでいってもパターナリズムであることの、本質的に抱え込む矛盾という言い方もできる。そしてここには、「個人主義を装った従順」がもっとも評価されてしまうという危機がある。この危機への考え方にはいくつか方策があり、そのひとつは「真の個人主義的な表現を行うための準備として、カリキュラム上表現活動を行っているに過ぎない」という立場を取るものだが、これはそれなりに真っ当な立場であろう。つまり、教育活動とは、教育の外における再現性を獲得させることを目指しているのだ。とはいえその理屈では、「技能をこそ中心に据えて教育すべき」という発想も可能になってくるのだが。[5]

さて初等中等教育においては、多様な経験をすること、自身の感性的領域に気づき、実践してみることが重視されている[6] 。特に義務教育において、万人が感性的な領域についての体験と試行錯誤を経験することは重要だ。いわゆる「絵の得意な子」はしかし、制作の方向性が多様とは限らない。むしろ普段は、きっかけがなければ自分から作品制作をしようなどとは思いもしない児童や生徒から、思いがけない表現が生まれることも多々ある(そのような表現を知る機会は、無論「絵の得意な子」にも大きな財産だ)。この誰しもが「思いがけない瞬間」に出会うことができるという経験こそが、義務教育における美術教育の大きな価値だ。そしてそのような思いがけない瞬間を準備するのは、教師側の題材の設計や働きかけ方に依る部分が大きい[7]

さて、高等教育における美術教育は、大学や専門学校など、それぞれが専門分化した領域について教育活動を展開することになる。専門学校では職業教育となるだろうし、大学においてもデザイン科では、造形的な基礎理論[8]だけでなく、クライアントに対してのプレゼンテーションという、職業上必要な能力についての教育も行われる。
「ファイン系」としばしば呼ばれる、絵画、彫刻、版画(東京藝術大学の先端芸術表現科もここに含まれるだろう)などの学科においては、作品制作は前提である。その上で、制作者には技術的な高度さ、伝統的な主題や問題系の理解、そのジャンルが持つ本質的な魅力と弱点と、どのようにそれらと対峙してきたのかの歴史を踏まえた表現が期待されることになる。
個人主義、表現主義的な制作を行わせようとしてみても、個人の時代的、地理的、年齢的、肉体的な制限の影響を強く受け、「全くの自由な表現」が生み出されることは少ない(結局何かを密輸入することになる)。一方で、ジャンル的な教育がしばしば個性の発露の可能性を抑圧し、歪め、結果としてスポイルしていくことも事実だろう(日本画壇や工芸業界の評価軸が、結局人間関係であると揶揄する声も、いまだに聞かれるのだから驚く)。
しかし一鑑賞者としては個人の内的な必然性と、ジャンルの固有性が絡み合い、化学反応を起こした作品のみが真に良い作品として見えてくる。では、一方的に技術を習得させることを重視するのか、それとも個人個人でばらばらの方向を追求させるべきなのだろうか。と、問いを立てたところで、実質的にはこれは偽の問いだろう。芸術の高等教育では、この両面を教育するに十分な時間が与えられている「はず」だ。そして高等教育にもなれば、被教育者は自律した学習者でもあるということになる。

美大批判のような高等教育批判が「出ることそのもの」が健全なことであるのは、学習者自身がどのような教育ニーズをもっているのかを自覚している点だろう。一方で美大の修士以上の学歴を持つ者であっても、美学校や新芸術校などをセカンドスクールとして利用する状況は、「ニーズの多様化による美大教育の限界」なのか「美大における大学院の存在意義そのものへの疑義」と言えるのかは、各人の判断の分かれるところかもしれない。
更には、専業の作家であろうと、兼業でありつつも、批判的な作り手であり続けようとする者であっても、インプットの場や、ゼミのような空間は必要であろう。コ本やと筆者で共催していた「シカクカイ」や、岡﨑乾二郎『抽象の力』読書会などを筆者が行っているのは、大学制度の外側に出てしまった状態にあっても、何らかの学習を続けたいという動機も大きい。COVID-19感染拡大防止のための休校要請によって殊更あからさまになったことであるが、多くの人間にとって「自習」はあまりに難しい行為なのだ。それが、「他人と共通の話題になること」によって途端に苦ではなくなる。恐ろしいことに、人間の社会性はそのように本能に強く結びついている。「業界に属す」ことのメリットは、このいわば「耳学問効果」にありつけることでもあるだろう。

筆者は「腑に落ちた事」しか道具としては使えない性質であるので(そのために過去には多数の作品をとにかく見て回るということを自身に課していたこともある)(それは「誰それが言うには」という、発言主体を明確に切り分けつつ検討する作業を苦手としているということでもあるのだが)、独習よりも対話の方がより「腑落ち」に結びつきやすいとも思う。そして「何者でもない」者から変に権威をまとい始めてしまった近年では、対話ができる空間はより貴重にもなってしまっていると感じている。私は今も常に、共に学ぶ相手を欲している。このテキストの読者のうち一人でも多くと、共に学んでいけるとよいと願っている。



  レビューとレポート第18号 (2020年11月)