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芸術にコミットなんてしたくなかった。(しかし、)

芸術――この場合、諸芸術というのではなく、絵画・彫刻を中心とするファインアート――はたとえば他のジャンルと比べて「公共的」なのだろうか。何故、複数存在するジャンル(そう、たとえば部屋に転がっている、あるいは今やスマートフォンで読まれるマンガや、テレビやインターネットで放送・配信される動画コンテンツたち)のうち、ファインアートだけが特権的に美術館制度や大学制度などの、国家の制度による保護を受けている[1]ように見えるのか[2]。展示されているものこそが「良きもの」であり、その価値を受け入れない者は、「感性の無いもの、悪いもの」とされてしまうのだろうか。そう、美術制度には「権威」が常に張り付いているように見える。

 

あいちトリエンナーレを巡る「騒動」(展示そのものの主題ではなく、飽くまでその周囲)において度々見ることになった「偏った政治的な主張に公金を使うのはいかがなものか」という発言や態度は、その権威性を自明視して、それにそぐわないと苦言を呈するのか、現代美術の「 “左翼がかった”エリーティズム[3]」に反応しているのかはともかく、芸術の権威を前提とした態度だとも言える(そしてこれは勿論、批判する側だけでなく、擁護する側にもまた、一定程度内面化した発言が見受けられるものである。)。

 

著作権法では作品は「思想」を表したものとされるが、芸術が示す「思想」とは、言葉で紡がれた「いわゆる思想」の「単なるイラストレーション」というのではなく、作品に内在する論理の水準にあるもの、ということになる――あるいはそれを「美意識」と呼んでもよいかと思う――が、では、国民国家の行政制度が、「ある特定の美意識」(それは、「真理」でもなく、「倫理」でもない)を擁護することは、果たして公正なことなのだろうか?いくつか反論のパターンは思いつく。たとえば、「美術館に収蔵されているものは我々の『伝統』であり、我々の歴史そのものである。」とか、「その『美意識が優れている』という専門家の蓄積がある」といったものを考えても良いだろう。そもそも複製芸術の登場は、歴史的に考えればそんなに古いことではない[4]。我が国にもそれなりに長い歴史と文化の変遷があるのは事実であるし、専門家を信頼しようというのは、尤もなことである(主権者たる国民には全ての事象を判断する能力は無いので、実際に我々の社会は専門家の判断を尊重している。)。

 

しかしながら重要なのは、「主権者は我々である」ということは「常に専門家の判断に従う」ということではないということだ。むしろ、我々の美意識は、(例えば民主主義体制化において、我々の社会の法制度をより良い形に変えていくことができるように、)我々で議論し、我々の手で変えていけるという点こそが強調されるべきであり、芸術の権威に疑義を唱える権利とそれへの専門家からの応答義務が健全にサイクルしてこそ、芸術の公共性に正統性がもたらされる。これこそが筆者の仮説である[5]

 

どういうことか。この仮説においては、国家は、特定の美意識を擁護するものではなく、その美意識や芸術の価値決定のための公共圏を提供する。つまり、作品制作やキュレーションといった活動は、既存の美意識への異議申し立ての活動であり、美術館を始めとする美術に関する制度とは飽くまでも、「既に承認された美意識」を恒久的に示し続けるためではなく、市民参加によって積み重なっていく可塑的な美意識の公共圏を下支えするためにある。

 

展覧会の主催者や、そこに集う鑑賞者、あるいはジャーナリズムはいずれも、作品や展示の良し悪しを示し、語り、議論することによって、互いが持つ美意識を相互に確認しあい、高めていくための場を形成する。そしてこれは、他の利害対立を調整しなければならないあらゆる政治的な闘争と調整の基礎を成す「公共圏」を形成するための基盤にさえなる。その意味において、つまり、芸術はその芸術性を追求し、それを他者へと問い続ける限りにおいて――つまりは、公共的とされる事柄に言及しているがゆえではなく――公共的な性格を持つのだ。この場を「芸術の公共圏」と名指そう[6]

 

しかしこれは一方で、筆者にとっては芸術制度に「付き合わされている」も同然なのだ。すなわち、「自身の美意識を擁護したくば、この議論の場に参加せよ。さもなくばお前の美意識は無視されるであろう。」ということになるからだ。

 

筆者が、ある作品が卓越している――歴史に残るべきだ――という確信を発信するのは、この「芸術の公共圏」を仮定しているからこそである。作品がどのように素晴らしいのか、他者がトレースできる形で残し、発信していけば、必ず届くところには届くと、そう考えて愚鈍にも評論のようなことをし続けている。しかし、たとえば、芸術に権威性が貼り付いておらず、ジャンルのワンオブゼムでしかないのであれば、筆者はここまでコミットしていなかっただろう。芸術にコミットなんてしたくなかったのである。

 

今回のあいちトリエンナーレ騒動における、「反発心」の出処―― 「造形的に『良く』も無いのに、漠然と正義っぽいテーマをくっつけてアート名乗ってんのかよ」という"気分"は十二分によく分かる[7]
公共圏を重視するのならば例えば、「議論喚起的な作品が良いとされる」という特性も導き出されるだろう。であれば、「こんなもののどこが芸術なのか」と「炎上」するときこそが、新しい芸術が世に問われ、そして真に着陸できるかどうかの好機なのだという論も導かれる。「炎上全てに答えろ」などと言うつもりは勿論毛頭ない。しかし、炎上の中にある、真にクリティカルな疑問には答えられなければならない――そこには、インナーサークルであれば「なぁなぁ」でスルーしてしまう、あるいは公には語ることが危険とされるような、ジャンルそのものを根本的に問い返す視線が含まれうるからだ。その「クリティカルな問い」へと応答する姿勢こそが、「すべての鑑賞者へと開かれた展示芸術」が示すべき――新しい美意識を世に問う姿勢であり、芸術の革新とは、そのようなダイナミズムに賭けることだろう[8][9]