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人の造りしもの

復元された仏像のけばけばしい色味と比べ、色彩が剥落し、木の朽ちゆこうとしている様たるや、まさに迫真の観がある。あるいは、フィギュアがリペイントされることで、まったく同じ形態にもかかわらずまるで見違えることがあるのは、立体造形における着彩の影響力が、その奥にあるはずの「形態」の印象まで操作してしまうほどに重要な要素だということだろう。グリーンバーグが語ったモダニズム流の思想[1] に従えば、そのイリュージョンの強力さ故か、彩色彫刻よりも単色の彫刻こそが近代彫刻では主要な地位を占めている。
彫刻の条件とは何か。彫刻とは、自立しているものだ。世にあるもので、自立しているものは、生命あるものか、人の造りしものだけであり、命のないものは皆、横たわっている。良い彫刻とは何か。あるキュレーターは「彫刻というのは『生きて』いなければ駄目なんだ」ということを言い放ったことがある。しかし、近代絵画を通じて芸術に参入した筆者は「人の造りしもの」としての痕跡をいかに残しつつ「生き始めている」のかこそが、彫刻において興味深い問題のように思える。これが例えば、「生きているように見せる」ことに重点を置こうとするならば、生物の「生成の原理」――たとえば、内圧によって内側から「張る」様子や、皮膚の下からの色がうっすらと透けるさま――を模倣することが必要だろう[2]。しかし、一方で彫刻には彫刻の「制作の原理」が存在するはずだ。
大野陽生と高橋直宏の二人展「TRACTOR BEAM vol.2 -TALISMAN-」が2019年10月25日から11月4日まで、新興スペースWALLAにて開催された。大野は、石彫にパテを加えた塑像と、鉛を鋳造した小さなメダイを、高橋は墨を入れた木彫を出展していた。
彫刻の中でも、飛び抜けて「重い」素材が石だろう。物理的な重さだけでなく、とにかく加工に体力が要求される。その分、木や金属と比べて物質としては安定している。気温や湿度によって、変形したり、錆びたり、腐ったりすることもない。石像が必要とされる場面というのは、そのような、不変性――屋外で吹きさらしであっても変化しない耐久性――が要求される場合であろう。しかし、大野はそのような「重い」素材である石に、パテを加えて制作をする。初めからモデリングを意図するならば、芯材としても石は用いないはずだが、大野は、石とパテのどちらもが露出するように作品を仕上げる。ここに、複数の素材をあえて見せる意図は明らかだろう。鉛は融点が低く、比較的手軽に鋳造することができる素材だ。表面張力があるため、細かいディテールの表現には向かないが、エッジが省略された造形には、造形の単純な構造を浮かび上がらせる効果がある。大野の作品は小さなものだが、その分、構造の強さがよく見えるものになっている。
高橋は今回、正面性の強い木彫を出展している。顔が複雑に分割されつつ、その上に入れられている墨はその奥の造形とは、更にずれた位置にある。足の造形も、墨で下書きがされているのだが、正面、側面と天面から見たそれぞれの位置には齟齬がある。このような、それぞれの視点から見た際の位置のずれは、彫刻としては素人仕事のはずだが、高橋があえてこのような痕跡を残しているのは何故か。顔の仕事を見れば、足の視点による齟齬はあえての仕事であることが分かるだろう。彫刻は、周回による鑑賞を要求されるメディウムだ。その上で、それぞれの視点ごとにむしろ齟齬が生まれ、それを補完するように鑑賞するというのは、像と絵の具を行き来する近代絵画の鑑賞が要求する鑑賞体験とむしろ近いものだろう。木に入れられた下書きによって、ヴァーチャルなヴォリュームが立ち上がる。その時に、彫刻的なマッスは一時的にキャンセルされる。その2つの視点の振動を、高橋の彫刻は制作の原理をあらわにすることによってもたらしている。
関内文庫では、「水戸部七絵|髙山陽介 顔の奥行き」が11月の8、9、10日に開催された[3]。水戸部は絵画、髙山は彫刻を制作している。絵画と呼ぶにはあまりにも大量の絵の具を用いて、手前に盛り上がってくるというより、もはや塑像と呼べそうなほどに盛り上がった作品をつくる水戸部と、正面性の強い首像とを木彫などの技法を組み合わせる髙山の、どちらも人物、顔を題材とする作家の二人展である。
髙山の彫刻には、首像の支柱として缶コーヒーの空き缶(ブラックやファイア)が用いられ、土台らしき部分には、家具から取られた板や、袋に入ったコンクリート?(石膏?)が用いられている。そこまで含めて、一つの作品だ。コンクリート?の部分をよく見ると、内側からの内圧を受けて膨れた形状になっており、一部にビニールの切れ端が覗いている。硬化しようとするコンクリート?が入った袋ごと、上から空き缶を突き立てて支柱としたのだろう。他の作品でも、この土台状の部分こそが髙山のユニークな仕事になっており、頭部に塗料を繰り返し吹き付け、塗膜が非常に分厚くなって、下にぼとぼとと垂れる様や、頭部の木を削る作業で発生したと思わしき木くずを、接着剤によって貼り付けるなど、作家はこの部分にこそ、制作の痕跡を多く残している。髙山は、制作の痕跡を見せることに全く躊躇しないばかりか、むしろ発生するゴミを含めて、その過程を見せることこそが作品であるとプレゼンテーションしている。
大野、高橋、髙山のいずれの作品も、そこにあるのは、制作の原理の露呈である。彫刻への下書きは、その内奥に仮想的なボリュームを発生させる。絵画においては「イリュージョン」とも呼ぶその効果は、彫刻制作者にとっては、完成を予測するための必須の手順でもある。一般的な意味での「完成」をさせない態度は、全てを説明してしまうことへの興醒めを避ける態度でもあるが、それは制作の原理が露呈していることを――完成への前後の時間が豊かに含まれていることを――是とする感性でもあるのだ。「ものが造られし瞬間」こそが芸術性の顕現なのである。