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私の知的生産術(というほどでもないのだが)

知的生産術というほどのことでもないのだが、割りと聞かれることが多いので、不遜にも少し書いておく。

 

私は評論家を肩書としている[1]が、それは活動を端的に説明する肩書としてそうなるという意味であって、何かの構成員であることをもって名乗っているわけではないし、評論で生計を立てているわけでもない。そも、「文筆としての評論で生計を立てられる」人間が果たしてどれほどいようか。少なくとも美術批評だけで「食べていける」額が産業規模として存在しているとはとても思えない(無論、私の原稿料が少ないだけで、もっと貰っている人は貰っている可能性はある。基本的に、私は依頼を断らないスタンスで昨年まではやってきた)。というわけで、私はこの9年ほど、フルタイム労働の余剰時間を使って原稿執筆を行っている[2]
知的生産は、インプットとアウトプットそれぞれの時間が必要である。時間がかなり贅沢に存在している学生や専門職としての研究者(とはいえ、「大学の先生」の時間の無さは、Twitterに愚痴として溢れているが)に比べ、フルタイム労働者には多くの時間は用意されていない。また、私は一日8時間は寝たい人間で、普段5〜6時間しか寝られない時と8時間寝られている時で脳細胞の連結度が全く違ってしまうということもあるので、睡眠時間を削って何かをする、という方法はここでは取れない。
結果的にどうなるかというと、まずはインプットは制限せざるを得ない。私の場合は、「展覧会を見る>読書をする」という優先順位を設定したので、読書量はかなり少ないものになっている。また、疲れているとそもそも字を追うこともできないので、どうしても読みたい本がある場合は、読書会を設定して無理やり読む形になった。読書会といっても、様々な方法論がある。事前にメンバーを固め、読み込み、レジュメ担当者がまとめたものをもとにして、各自の理解や疑問点を話し合う形式が一般的なのだろうか。ただしこの方法だと各メンバーに時間と知的リソースが要求される。何より結局事前に読まなければいけないので、この方法は残念ながらパスである。というか、実際にやろうとしたこともあるが結局長続きしなかった。結局どのような方法になったかというと、集まったメンバーで、その場で音読しながら、分かるか分からないかコメントを言うだけの会である。時間はかかるが確実で、私は音読も苦ではないので、わりと性に合っている。
展覧会であるが、これも見に行くしか無い。つらい。なるべく多く、大小、ジャンルも様々見ることで、時代の全体観をつかめたりもする。なんとなく「見なくても分かる」ということが無いでは無い。しかしながら、他人の言葉で「絶対見たほうがいいよ」は見に行ったほうがいいのだが、「あれは見なくてもいいよ」は、信用しないほうがいいのだ。結論として見なくてもよい場合も確かにあるのだが、「なぜ見なくてもよいのか」は、実際に見に行かないとわからないし、そもそも「見なくても良い」理由が他者と同じになることも、「見なくても良かったかどうか」の判断が同じになることもそんなに無いことなのだ。それがたとえ信頼している作家なりキュレーターの言葉であったとしてもそうなので、いずれにせよ、展覧会は見なければならないということになる。つらい(私が東京を離れられないだろうと覚悟している点も、このようなところにある)。また、トークイベントやレセプションの類も、直接そこから得るものが多くなくとも時間があれば行くほうが良いだろうとは思う。むしろ結果的にはある種の怒りを、自分の中の美意識を確認するために行くことになることも多い。払う料金は、トークの内容に対してというよりも、そもそもそのような場が組織されたことへの対価だと思って払うべきなのだろう(いまだ貧乏性が抜けないので自分でも情けないのだが)。
アウトプットであるが、以前はTwitterに考えたことや展覧会の感想などはなるべく書くようにしていた。それぞれが断片的でもよいのがTwitterのいいところで、連続して書きたければ連続して書き、それをその後ブログにまとめるという方法である。とはいえ、近年のTwitterはなんか感じ悪い(良しにつけ悪しきにつけ、感想が伝播しすぎるうえに、感情的なリアクションが増幅しやすく思う)ので、ここのところはTwitterには「なんか感じ悪い」し「穏当な表現で書くべし」という規範が自分の中でも発生している感じがするので、あまり使わない(一応、感じ悪さには抵抗してるつもりですが)。どこに書くかというと、Googleスプレッドシートを使う。スプレッドシートはMicrosoft Excelと互換性をもったwebサービスだが、データをクラウド上で管理することで、複数のデバイスからのアクセスや、同時に複数人での共同編集、自動保存を可能としている。「パンのパン03」の校正がきりとりめでる氏よりGoogle ドキュメントで返ってきて以来になるが、ちょうど諸事情でChromebookを触り始めたタイミングであったこともあってMicrosoft Officeから乗り換えてみた。運用では、Microsoft Excelでも構わないのだが、とにかく考えたことを「見出し」と「内容」、「キーワード」に分け、セルに入力しておくのだ(Macユーザーであれば、往年のハイパーカードの方がよいのかもしれないが、私は基本的にはWindowsユーザーだ。というか、梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)はまさにカード型の思考方法の本だったので、そちらを読めばよろしい、ということかもしれない)。もともとは現場研跡地でのイベント「gnck、絵画を語る」(2018)のために、Excelのシートに話題を並べて、乱数を発生させてソートすることでくじ引きとして準備したデータが元になっているのだが、この方法でアイデアを管理しておくと、一々自分の原稿を引っ張り出して参照しなくても良い点がいいところだ。自分が言っていた主張を忘れるなど、学生のうちは全く信じられないことなのだが、さすがに批評活動が10年をこえてくると、自分自身の立場でさえ覚えていられないことも増えている(微妙なニュアンスの変化は往々にしてあるが、ときにはこんなことまで批判していたのかと思うこともある)。これはそもそも人間の動物的な限界なのだろう。長期戦を考えるならば、アイデアをこのように貯めておくという方法が必要になってくる。同時に、本を読んで気になった主張やトピック、あるいは年表なども別のシートに(引用元を忘れないように付記して)書き留めておくと、それも考えをまとめるときには補助になるだろう。年表などの良いところは書き溜めると資源としての利用価値が上がっていくという点にもある。仕事のたびに一からすべて立ち上げる、ということは、それにフルコミットできる人間にとってはある種エキサイティングな要素にすらなるだろうが、時間的制限があり、フルコミットできない立場としては、手札をなるべく整備しておき、いつでも出せるようにしておくという方法が必要になってくる。

 

ちなみにgnckの主張は、そんなに複雑なことは言っていない(はずだ)。常々、ある作品が良いか、良くないかという話である。その根拠となる説明はしかし、時には美術史上で論争的に扱われているトピックであったり、時には別のジャンルで語られている美意識を説明に用いたり、時には認知科学的な知見であったり、あるいは生活の中で気づくような要素であったりと様々ではある。様々な説明を用いるのは、作品の良さを説明するのに、それぞれが適切だと思うからだ。それらの言葉が私の腑に落ちて説明できる言葉だから、ということだ。
だから、gnckが説明に使う言葉は様々ではあるが、複雑な抽象的思考を経た言葉であったり、誰それの哲学者が言っていた〇〇概念にあたる、とかであることは少ないだろう。それらは、結局ハッタリや目配せ(「これは最新の知的トレンドをおさえてますよ〜」)以上の効果がない場合が多く、結局「美意識を的確に説明することで鑑賞者の言葉を豊かにする」とか、「制作者に資する」ものにならないことが多いからだ(そもそも、最新の哲学で言う〇〇概念だとかを私が理解していないだろう、という話もあるのだが。そういうのは大抵、本を読まないといけないし。とはいえ作品の良さについて、哲学的概念を理解しないと説明できないような類のものが果たしてあるのだろうか。)

(ところで、ヒトの活動が地層的に決定的な影響を与えていることや、地震・災害が多いことは当たり前やんけと思うのですが、それがアートに何か関係があるとあなたは考えますか?物自体が感じる美学やAIが感じる美学があり得たとして、それのヒトにとっての意味以上の、それそのものの意味がアートに関係あると思いますか?社会的な正義や今世紀ますます尊重すべき倫理もあるし、それをないがしろにしたい欲望(『うっせーな!』)に与するべきではないとgnckは思いますが、それそのものを主題にすることが作品的な価値を押し上げるのだと思いますか?)

さて最後に偉そうなこと(主に学生諸氏にむけて)を申し上げる。批評行為など、誰でも行っていることだ。特に四六時中、作品について考えている作家の言葉は、「批評家」など飛び越えて、(独特の言葉遣いであっても)深く創造の本質をえぐり出すことだって珍しくない。それでもなお批評行為を行おう、作品を「適切に」評価しよう、作品について感じたことを「ちゃんと」言葉にしようと思うならば、目と、手と、足と、頭を全部使うべきだろう。本物を見ること。自分でも制作の過程を体験すること。実際の現場に赴くこと。先行する言葉をよく知ること。その上で、腑に落ちてきた言葉をちゃんと使って、自分の言葉で自分の価値判断を提出すること。それは完璧でなくとも良い。むしろその中に含まれる特定の個人であるが故に偏差をもった視点同士が交わっていくところにようやく、芸術の公共圏は出現するのだから。