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静中在動、動中在硬

「シネマグラフ」と呼ばれる、ループgif形式の動画がある。映画の一場面のような画像だが、その一部分がループ動画になって、動き続けているというものだ。たとえば「注がれ続けるコーラ」などはその代表的な例といえるが[1] 、これを見ればシネマグラフの「欠点」が色濃く表れていることがわかる。それは、この形式がもつ2つの硬さ、すなわち動きがある故の硬さと、ループ動画であるが故の硬さである。
1つ目の硬さは、画面の一部が動くが故に、逆に動かない部分の硬さこそが明らかにされてしまうということだ。図の例で言えば、注がれる液体が動き続けるからこそ、動きのない缶や手が凍ったように硬く見えてしまう。動かなければ存在しえなかった「硬さ」が、動くが故に見えてしまうのだ。これは、「動画」というメディアが持つ特性といえるだろう。

動くが故に、硬さが感じられる。同じような現象は、谷口暁彦のフォトグラメトリを用いた作品《日々の記録》でも発生する。この作品は、「多数の写真から3DCGモデルを生成する」という、ようやく登場し始めたばかりのコンピュータを用いたフォトグラメトリ技術を使って、谷口の家の中の雑多な箇所を撮影し、3Dモデル化した作品である。作品はプロジェクションとレバーが準備されたインタラクティブな状態で展示される。
それまでの3DCGが、計算量を増大させ、光源や光線、物の表面の凹凸や光の散乱など、現実をなるべく精密にシミュレートすることによって「自然」な描写を実現しようとしていたのに対し、フォトグラメトリによる3DCGは、自然の色を獲得したうえで、それを3Dモデルに「貼り付ける」というアプローチによって、おそるべき「自然さ」を獲得している。(これはまるで、デッサンによって極限まで「自然な」描写を目指した新古典主義のその果てに、写真術が登場したかのような状況に見える)
このおそるべき迫真性を備えた3DCGは、それがただのポリゴンに貼り付けられたテクスチャマップであることを明らかにするように、ゆっくりと回転し、そのペラペラの裏側を見せつけている。この3Dモデルは、展示会場の台の上のレバーを操作することで、自在に回転させて好きな角度にすることができるのだが、そのように動かした瞬間に、先ほどまで迫真的に感じられていたモデルが突然凍ったような「硬さ」をもつのだ。この硬さはしかし、谷口作品においては欠点とはならない。それは、写真が魂を抜き取ってしまうと思われたのと同様に、写した対象を死体にしてしまう効果なのだ。

動きによって、その奥の物体が姿を現すこともある。レイ・ティントリによる、Chairlift「Evident Utensil」のミュージックビデオは、動画データをグリッチさせる「データモッシュ」を意図的に用いたものだ。動画データにおいては、すべての映像のフレームをいちいちデータとして記録しておくと、膨大な情報量となってしまう。通常動画には、あるフレームが直前のフレームとほとんど同じ色情報をもっているという性質がある。あるフレームから次のフレームについて、画面全ての色情報ではなく、「色がどこに動いたのか」という「差分の情報」を扱うことによって、動画全体の情報量を大幅に圧縮することができるため、MPEGなどの動画形式ではこのような方法で情報量を圧縮するのが普通である。とはいえ色の移動情報だけで最初から最後まで動画を描画することは難しいので、一定のフレーム間隔で画面全体の色情報を更新している。このタイミングで色情報が更新されないと、画面全体の色が変わらないにもかかわらず、その色の移動情報が与えられることになり、直前の画面を「引きずった」ような効果が発生する。これがデータモッシュの基本的な原理だ。
「Evident Utensil」のMVにおいては、通常の長さの動画がデータモッシュされることもあれば、短く繰り返される動画をデータモッシュした場面もあり、そのどちらも独特の効果をあげている。データモッシュの「色を引きずる」効果は、後者のように繰り返し適用することで、画面がどんどんと水流のような「流れ」だけになっていき、抽象化されていくのだが、水中で撮影した映像を素材として用いているのは、この効果に自覚的な証拠だろう。髪を振り乱すことでその部分の色情報を更新してみせたり、人間にとって「顔」の検出能力が高いことにも、明らかに自覚的だ。色がいつまでも引きずられているように見せているが、実はデータモッシュの効果「ではなく」、顔面に直接ペイントを施しているシーンもある。
この動画においても気付かれることは、たとえ色情報として前の画面を引きずっていたとしても、動くことによってその形態が明らかに立ち上がってくるということだろう。動画になった途端に「硬さ」が分かるのと同様、「動く」ことによってその物は性質を明らかにしてしまうのだ(ランダムドットキネマトグラムは、そのような動体の認知の特性を明らかにする実験であるし、迷彩服やギリースーツをまとったスナイパーにとって、「普通の速度で動く」ことさえ厳禁である)。

相対的な速度の違いによって空間を認識する人間の認知の特徴を利用した3次元表現は、スプライトによる疑似3Dという形で、ビデオゲームにおいても実現されていた[2] 。これは永田康祐による指摘[3] だが、ジョー・ハミルトンによる《Indirect Flights》は、相対速度によって奥行きが現れ、なおかつ静止によってその奥行きが消失し、「ディスプレイの絶対平面」が立ち現れる瞬間を浮かび上がらせる。

JNTHEDは、自らのウェブサイト「RakGadjet」について、それぞれのイラストの鑑賞時間を長くさせるのではなく、短い時間で次々とブラウジングしていくように鑑賞体験を設計しているとした。そこでは「一枚絵として描くのではなく、動画の一部分として描く」「それを連続して見せることで、見ている側に動画的快楽を伝える」ということが目指されていた。そこで引き合いに出されたのは、「マンガは動いているように見える」「絵コンテは、アニメの鑑賞体験をもっている人間にとっては動いて見える」ということだった[4]
スコット・マクラウドや泉信行らが指摘するような、マンガというメディアの動性は、JNTHEDによってウェブサイトという異なるメディアにおいても運用されていたのだ。そして素朴な直感に反して、アニメーション化されるよりも、静止画であるはずのマンガや、イラストの方が、豊かな動性を伝えることも往々にしてある。JNTHEDがRakGadjetで多用するオノマトペには、マクラウドが指摘するように「時間を流す」効果があり、《後輩スティンガー》はその顕著な例だ[5]

ループ動画には、固有の硬さがある。それは、同じ動きを繰り返してしまうことによる硬さである。これは、「動きがすべて予見できてしまう」ことによる、認知的な反応なのであろう。
ループ動画にランダム性を導入すれば、問題は解決するのかといえば、そう話がうまくいくものでもなく、「完全なランダム」というのは単なるホワイトノイズとなってしまう。qubibiの映像がランダム性を伴っていても、ぼうっと見ていられるものになっているのは、単なるランダムではなく、計算による生成だからこそだ。
「ループgifイラスト」とでも言うべきジャンルの開拓者として、豊井祐太の名前を挙げることに、さほど違和感は無いだろう。その後多くのフォロワーが登場している(豊井自身は、その表現を多様に展開している)が、豊井作品とそのフォロワーを分けるものに、ループの区切れに対する意識があるだろう。我々が眺める風景において、風に揺れる枝は、「完全にランダム」にその位置を変えているのではなく、力を受けて「固有の周期」で揺れているのであって、その枝もまた幹の固有の周期の影響を受けている。豊井のループgifによる風景画は、画面全体の固有の周期が「それぞれ違っている」ことにその特徴がある。画中にポリリズミックな複数の周期が存在しているが故に、本当の風景と同じように見続けられるのだ。彼の作風のフォロワーの多くが、モチーフのレベルでの影響に留まっており、このポリリズムがなかなか継承されていないのは、表層よりも構造の方がむしろ伝播していかない、ということなのだろうか。



  レビューとレポート第27号(2021年8月)